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2017-02-25 15:07:00
前回、最近の経済社会の現象の中に、「損をしても儲かる」とか、「公益的内容の手数に対しては料金をとらない」というような現象があると書いた。これは端的にはグーグルを指している。グーグルの検索に対して、グーグルは料金を取っていない。(それはある種の広告掲載の仕方でじつはグーグルは儲けているのだという人もいる。)ウイキペディアというネット上の百科事典はどうだろう。項目を引いて、内容を読むのはタダだろう。(特別の基金組織があるんだという人もいる。)UNIXという系統は多くのエキスパートが無償で参画して成立し、UNIXは無償で利用されている。などなど。従来であればかなりの料金を伴ってもおかしくない技術が、人々に無償で利用されている。これはIТという領域が発展した結果起こっている事柄で、ありようによっては「無償で利用できる公益事業」がこの領域では今後ともいろいろできるだろうと思われる。★こういう事業主体が「株式会社」である場合、株式会社の公益性を時代に併せて考える新たな機運になるだろうと、私は考える。グーグルが公共図書館に所蔵されている書籍をコピーしてそのデータを大衆に提供しようということを考える時(なに、もうすでにかんがえているわけだが)、「公益性」というものの内容をどう評価するのかは、喫緊の課題となっている。★このような現実が目の前にあるからこそ、株式会社の公益性という歴史的にはずいぶん錯綜して現代に至っている現象を、いま考えるはずみ、きっかけ、があると私は考える。遺伝子の方面にも同様の事例がある。
2017-02-25 14:37:00
株式会社は本来は公益的事業にのみふさわしいものというのが、19世紀までのイギリス資本主義の認識であった。19世紀までは、私的営利的事業に株式会社を当てるのは、「不適当」であり「無責任」であると社会的に認識されていた。株式会社制度についての19世紀のこの「縛り」が、何故、どのように、解除されてしまうのかいう議論は、どこかに風化してしまって、20世紀になると株式会社制度が「当たり前」のように私的・営利的事業に広く適用されるようになる。(株式会社の元来の公益性という問題は、法人企業のパブリック・リレーションズというものの存在を考察するときにのみ、今日でもなんとか公衆の念頭に残っている。しかし元来株式会社が公益的性質をもっていたという記憶が社会的に薄い日本のような国では、パブリック・リレーションズ?広告のことだろ、という程度にしか一般に認識されていないのではないか。)なにしろ法人企業の株主総会を数分で済ませることに経営陣が情熱を傾ける国だからね。★通例は営利的事業をのみ旨とするような株式会社に、事業の経営合理性を実現するために、公益的内容の事業をあえてやらせる(これが近年日本ではやった官業の民営化だろうけどね)と、株式会社の制度的ねじれは再転してさらにひどくなる。公益的事業にふさわしい政治的・行政的運用が、すっかり宙に浮きあがってしまう。これは内容的には政治的無責任である。★もちろん最近の新しい経済のありようの中には、「損をしてももうかる」とか、「公益的内容に対して料金を取らない」とか、従来にはみられない領域が現れてきていることも、私は念頭に置きながら、こう言っている。
2017-02-24 20:42:00
世の中はいま曲がり角ではないか。そして、曲がるべきものなら、いま妥当な曲げ方が必要であろう。★日本を代表とする大企業として、国民は最近久しく、自動車、電機の二大産業を数えていたと思う。★ところが国民の認識が戸惑っている間に、日本の「電機」は霧散しようとしている。★その極め付きが最近の「東芝」である。しかも東芝は単純に「電機」産業として滅びようとしているのではない。「原子力産業の維持」にどっぷりひたりこんだ結果、いまの惨憺たる有様を迎えている。(東北大震災によって福島原発がどうしようもなくなったという国民的教訓を、どうしてまともに受け取って、原子力発電の廃止に、国と社会が踏み切れないのか)★「電機」産業の悲運は、ひとつにはアジア諸国がまさかの勢いで産業発展してきて、日本の「電機」産業の一人勝ちにすっかり息の根をとめたという経済社会の競争上の問題があることは明らかである。しかし「企業の悲運」は、たんに競争上の問題だけではない。★「法人企業」が「公的」「公益的」「国家的」性質の事業を内容としていて、その「国家的」性質の事業を「法人企業」が十分に責任をもっておこないうるのか、というより根本的な問題が控えていると思う。★その場合、政治の貧困、政治の無責任が、礼式の上で「法人企業」の経営問題とされる。こういう無理を、根本から改める必要があろう。★東京電力が、福島原発を背負えるものか。JR北海道が、北海道の鉄路を背負えるものか。大学法人が、大学の財政を背負えるものか。この種の問いは、とめどもなく続く。ここに出会うのは、政治の貧困という課題である。
2017-02-23 21:54:00
天皇の権威に暴力は伴わなかったと書いた。こう聞いて、おやおやとんでもない、と思う人がでてくるだろう。★戦時中の天皇制のあの姿は、あれはいったいなんだと。天皇は現人神(あらひとがみ)と奉られ、天皇にたいする国民のあらゆる言動は、「不敬罪」という特別の犯罪の咎めを受けたであろうが。日常不断の国民生活の中で、「最敬礼」という号令がかかった時には、うむをいうことなく、90度の拝礼を行うしかなかった。(もしそれをしなかった場合、これはテロどころの扱いではあるまいよ。「非国民」という扱いが行われる。)★問題はこのように国内的には極端な暴力によって天皇制の権威を高めたとしても、この日本丸はまったくの国際オンチで、(アジアの覇王たることしか考えていないのだった)「日本丸」の重心が極めて高いところに置かれているので客観的に日本丸が不安定でもろいというところにある。★天皇の権威に暴力が伴わなかったというのは日本史全体をおおざっぱに見ての話で、近代の日本、特に戦時中の日本は、日本史全体からみれば極度に暴力がまかり通った時代であったが、いまの問題は、現在の自民党安倍内閣は、この戦時中の日本の姿が権力構造としてまったく正当で、日本の国勢が最高に高まる、いわば日本固有の歴史的姿であるという認識と感情を捨てることができないのではないのかという点である。★そうみないと、現在の政治に、わからないところが多すぎる。早い話、どうしてあの大阪の豊中の「独特の」私立小学校を、礼賛することになるのか。
2017-02-23 21:19:00
三浦朱門さんは『天皇』という著作で、日本史の古代から現代にいたる天皇の意義を考察しておられるが、たいへん面白い指摘は、日本史上、天皇はその権威を国民に示すのにさほど物理的暴力(権力とか武力とか)を用いていないという点である。天皇の「権威」は暴力をあまり伴わずに国民に納得されてきた、と。暴力を伴わない天皇の権威を「空虚」という表現で三浦さんは指摘しておられる。こういう天皇制を持つことが、三浦さんに言わせると、日本という国の国家的体質であると。★ただ、最後に、三浦さんはこういわれる。もし日本という国家の体質を船に例えると、天皇は日本という国家の重心に当たる。そこで天皇が、日本という国の重心として、高すぎる場合と、低すぎる場合という二種類の危機状態がありうる。(重心がすっかり船から外れているのは論外である。その船は直ちに転覆する。)国際関係に顧慮すること少なく、国内だけで天皇の権威をいや増すような国勢は、船が不安定で客観的には転覆の危険が高い。他方国際関係にばかり振り回されているときには、船の動揺は船の重心が低いから安定しているが、危機への対応の鈍さからかえって国勢を損なうであろう。近代日本の戦中戦前のありようは、船の重心が高すぎる姿、他方戦後のありようは、船の重心は低くて安定していたが、むさぼる惰眠が国勢を鈍らせるありよう、と対比できるかもしれない。★ところで今の自民党安倍内閣の政治はなんだろう。天皇の姿に関していうと、天皇の立ち位置を高く押し上げようとして、かえって日本丸を危うくしているのではあるまいか。国民的天皇という天皇の立ち位置がいま基本的に妥当と思うがどうだろう。★どの政治家も主観的には国勢を高めようとしているであろう。しかし現実に果たしてそれで国勢がどうなるのか、沈着冷静な判断が待たれるのであろう。その判断は国民がする以外あるまい。