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2021-10-31 10:25:00

資本への発展 

『資本論』の冒頭で、「商品-貨幣」という箇所から、議論が「資本」へ発展する箇所がある。

その「資本」へ発展するとっぱじめで、マルクスは、ここに問題がある、ここで跳べ、と言っている。「ここがロードス島だ。ここで跳べ」。

この箇所は、『資本論』を読む者がたいへん難しく感じる箇所で、なかなか一読できはしない。

ところでマルクスは、『剰余価値学説史』の中で、アダム・スミスは『国富論』の中で労働価値についての理解に迷い、労働価値に「二重の規定」を与えることになった、としながら、スミスが「迷った」ことを激賞している。そして生産過程での剰余価値の発生を事実上把握したとしている。つまりスミスが「ロードス島を跳んでいた」としている。

ではこの経過をわかりやすく説明してもらえば、「ロードス島」が理解しやすいのではなかろうか。

このような「説明」は、経済学説史論という経済思想論の一分野の専門家でないと、容易に果たせることではない。それに適当な本は、藤塚知義『アダム・スミス革命』東京大学出版会、1952年である。この本の第2章「アダム・スミスの価値・剰余価値・論」、その1、「スミスの価値・剰余価値・論における二重規定--『投下労働』価値説と『支配労働』価値説。『分解』価値説と『構成』価値説--」および2.「スミス価値論における二重規定の意義--労働価値説の確立の指標--」(25-38頁)という箇所を読むと、よくわかるように書いてある。「跳べなかった」人が読んでも、「跳んだ」人が読んでもよい。

この論点だけわかりゃいいんではなくて、アダム・スミスの学説の全体を見通しながら書かれている本でわかりたいもので、これは幸いそういう本だ。

(いや、難しい本だよ。ただ、ロードス島だけは跳べる、とおっしゃるかもしれない)

 

『資本論』冒頭の「商品-貨幣」しか、商品経済を論じているように見える箇所はない(しかももつぱらその形式からだけ論じている)が、資本主義というシステムが商品経済の上に乗っかっているのは確かであり、しかし商品経済だけでシステムとして成り立つというようなものではないので、これを「資本主義的商品経済」と呼んで全然おかしくない。(宇野先生は「資本家的商品経済論」と言っておられる。)むろん宇野先生は上記スミスの二重規定の件はとうにご承知だ。

ところで、この社会に生きる我々は、いま商品経済社会に生きている、「商品市場」に生きていると毎日意識している。これが実は、たんに商品経済でなくて、資本主義的商品経済で、資本主義のシステム、すなわち商品の生産過程で価値のみでなく剰余価値も生産しているというシステムが機能していて、初めて存続する商品経済社会である。

それにしても、資本主義のシステムは、当たり前のことだが、人間をとりまく自然環境が自らを維持し繰り返している働きを続けていることを、当然の前提としている。ところが資本主義というシステムは、これまでの人間社会でもっとも手ひどく自然を攻撃し破壊する活動をするので、これをやめるしかあるまいと、斉藤幸平氏は言われる。

そこで資本主義というシステムの機能を、初学者に帰って、学習してみたいと思うのである。

只今、コロナ禍という事実上の環境破壊が行われていて、これはヴィールス菌という自然の世界と、われわれ人間の世界の共存のありようを性急に求めている。このコロナ禍が行う破壊により資本主義システムがいますっかり機能不全に陥っている。(むろん資本主義商品経済も、うまく回らないでいる。)当面この問題への対応がどうなるか、指導者たちはどういう政策をとろうとするのか、いま選挙で問うている・問われている。

地球の環境保全も、これまた待ったなしで、11月中に対策のための国際会議をしている。こちらもやはり選挙で問うている・問われていることと思う。

 

2021-10-31 10:17:00

日曜日・晴れ・札幌。☆道新天気予報では「12時まで晴れ、その後曇」「気温15-5度」。☆今日は衆議院選挙。コロナ禍は資本主義システムを機能不全にしている。ために商品経済はまともに機能しえないでいる。当面これにどう対処するかが問われる。地球の温暖化対策も11月中に行われる。日本としてどうこれに対処するか、これも選挙は問うている。

2021-10-30 09:16:00

土曜日・朝方晴れ・札幌。☆道新天気予報では「終日晴れ」「気温14-5度」の秋日和。★道新2頁「温室ガス減へ具体策焦点 CОP26あす開幕」イギリスが議長国だ。☆いま話題にしている斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』は、資本主義という社会システムが絶えず発展しながら存続し続ける限り、資本主義システムが自然破壊を続け、地球の温暖化は止めようもないという。この主張の具体的内容は詳細にこの著書等に書いてあるから、その内容を知るにはその本を手にして読まれるがよい。そう高価で分厚い本ではない。☆斎藤さんの知見を支えているのがマルクスの『資本論』を中心とする著書と草稿類が示す「資本主義という社会システム」の内容と性質だ。それを簡略ながら再学習してみようとしている。その再学習の次第で、問題を今後どのように考えるかの手掛かりになろうから。なんといっても、資本主義というシステムを「すぐ停止」というわけにもゆくまい。

2021-10-29 19:39:00

経済学の対象

 宇野派経済学三段階論という、恐ろしく大仕掛けな話に次いで、恐縮だが、続けて大仕掛けな話を出しておきたい。それは、経済学が、そもそも何を研究する学問なのか、という話題である。

マルクスは、『経済学批判序説』で、国民経済学(古典派経済学)は、「生産-交換・分配-消費」を経済学の研究対象と考えた、という。

「物資の生産-分配-消費」ということであれば、その必要は過去にさかのぼってあらゆる人間社会に必然の事であった(こういうことを、経済原則という)。この過程が繰り返されることは、主体である人間が生存する以上当然のことでありましょうよ。

 そしてこの国民経済学の「生産-交換・分配-消費」という過程は、この「経済原則」を踏まえ、経済原則に規定されるでしょう。(当たり前だろう。)

 しかし、なにが「生産-交換・分配-消費」されるというのか。「商品」が、ということでしょう。「商品生産-商品流通-商品の消費」。だれが、か。小生産者。かれが自給する分は市場へは入らない、他人に売る分しか市場には入らない。他方、彼が買う他人の生産物も市場から買うわけです。このような「商品経済社会」が既に大変な広がりをもつているわけです。そうすると、この「生産-流通-消費」という過程は、その主体になる生産者は、もっぱら他人のために労働を行う「商品生産者」、その同じ彼は、他人が自分以外の者のために生産した商品をもっぱら買って生存する、ということになります。こういう前置きの下に、主体は「商品生産者」ということになります。

 それにしても、この商品の「生産-流通-消費」は、経済原則を満たすはずのものだが、これが果たして経済原則を満たすと確信できるものなのか、この「生産-流通-消費」が継続・反復しうる保証はどこにあるのか、形式しか示されていないではないか、という不満があるいは出てくるかもしれないが、まーとにかく、現にこうなって動いているのだから、ということで、商品の「生産-流通-消費」されている社会が、商品生産者社会が、商品経済が、国民経済学の対面する研究対象だと納得しましょう。

  ところが、マルクスは、こう批評します。国民経済学は、生産と分配が同一だ、生産と消費が同一だ、生産-分配・交換・消費が同一だと主張したがる。しかし、国民経済学にとって、真の問題は、生産と分配が同一だというようなことではなく、「生産、分配、交換、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総体の全肢節を、ひとつの統一の内部での区別を成していることである」(『経済学批判序説』)

  この肢節の連関が、表面上の連関ではなくて、必然の連関として把握されるためには、この連関の総体が一体何なのかということが明かにされなればならないだろうと、マルクスは考えます。そしてこの連関の総体を「生産」しているものを、国民経済学が知らない新しい概念であるとし、この新しい概念を「生産様式」と呼びました。これが『資本論』全編を以って論じられる「資本主義的生産様式」です。「資本主義的生産様式」は『資本論』全編を通して講究し、明らかになってゆくわけですが、『資本論』第一部、「資本の生産過程」、第二部、「資本の流通過程』、ははあ、「資本の生産-流通」ということだな、と分かりますが、資本の消費というのは妙ですね、「資本の再生産」ですよ、資本の生産・再生産ということにおいて、資本における「生産=消費」なのですね。そういうわけで、資本の生産、資本の流通、資本の消費(資本の再生産)ですね、「資本の分配」とは何だったか、これは剰余価値の分配ですよ、資本間で剰余価値が再分配されるありようですが、この資本と言う中に、「派生的資本」も含まれるわけです、詳しくは『資本論』全編を読むしかありません。

つまり国民経済学が商品の「生産・分配・流通・消費」とみた「経済学の対象」をマルクスは、正しくは資本の「生産・分配・流通・消費」であろうと、見たわけです。国民経済学は資本を目の前に現に麗麗と見ていながら、見ているものが見えない、それが単に商品経済としか見えないのでした。

こういうことがはっきりとマルクス『経済学批判序説』に書いてあるのに、この「経済学の対象」という議論になかなか気が付かないわけで、私なんかもこれをはつきり悟ったのは、経済思想家今村仁司氏(故人)に教わってからですよ。今村さんはフランスの科学史思想家であるルイ・アルチュセール(故人)の思想の日本での紹介者でした。今村仁司『歴史と認識』新評論、1975年に、はっきりと書いてあります。

目の前にあるのは、商品経済は商品経済であつても、資本主義的商品経済、その主体でもあり客体でもあるのは、資本です。たんに商品経済ではない。それを一言で資本制社会と呼んでいる。

なるほどそうか、労働力も商品化されて、労働市場と称している、土地も商品化されて不動産市場と称している、資本も商品化されて毎日株式市場で売買されていたと、気が付く、そういう意味では主要な生産要素は現にみな商品化している。ではこういう議論は「商品」という「共通項」でみな括ればけりがつくのかといえば、全然つきますまい。

『資本論』冒頭で、ブルジョア社会の富は商品の巨大な集まりになっている。だから我々の議論は「商品」から始まる、というのは、「ブルジョア的」には大変分かりやすい書き出しのはずですよ。マルクスはきっとその辺をじゅうぶんに意識している。かといって国民経済学者がつゆ疑わず対象にしてる商品の「生産-交換-分配-消費」をこれから論ずるんだという考えは、マルクスには一つもない。マルクスは『資本論』で、終始、資本を論ずるつもりなのです。

 

 

2021-10-29 09:44:00

金曜日・朝方曇り・札幌。☆道新天気予報では「12時まで曇り、その後晴れ」「気温13-8度」。☆野口悠紀雄氏「日本を衰退させる『悪い円安』 日銀は緊急利上げで阻止せよ」ダイヤモンドオンライン、10月28日配信。輸入インフレを抑止するため緊急利上げせよ、という趣旨。堂々の立論である。ところで、この記事に対してついている大量のツイートをみんな読んでみると、ツイートしている「大衆」の全体を考えると、堂々以上に堂々と立派な現実論を展開している。何よりも好感が持てるのは、このツイートしている「大衆」の全体は、ちっともパニクらずに事柄の全体に対面していることだ。資産の国内での買いを言ったり、米国の国債に資産の大半を移したり、などと個人的対応を 言う人もいるが、全体から聞こえてくるのは、日本としては内需振興で対応しようという。どうもこういうときには、偉い人が一番バカなことを考えやすいものだ、政府はよくよく考えて、いい手を打ちなさるがよい。

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