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2017-12-29 20:43:00
この場合、「自分が選ぶ1冊」が何なのか、それぞれ決まるまでがひと騒ぎ・一苦労である。「どんな本でもいいが、漫画はだめ」。いきなり読む本が決まった人間はほんの数人で、あとは途方に暮れる。「この本でいいか」と、いろいろな本を手にして教卓のところにやってくることになった。じつにさまざまな本であった。★いま私は、その中の1冊しか覚えていない。『野生のエルザ』を持ってきた生徒のことを覚えている。この本を選んだら、いったいどういう感想を述べることになるのかと、私が迷ったせいかもしれない。★こうして毎時間、とにかくクラスは、それぞれ「感想を話し、感想を聞く」にぎやかなおしゃべりをしていた。★ところで学期末試験が近くなると、生徒から、試験準備もしたいが、この時間を利用させてもらえまいかと言って来た。どうやら従来も、「不要不急」の時間には他の授業の試験のための「内職」をしていたらしい。★私はこの学校で倫理社会だけを教えていたわけではない。たまたまこのクラスの倫理社会を受け持っただけである。職員室で「同僚」の先生方とあいさつしたりしているので、先生方の気心は大体察しが付く。試験範囲と先生の名前だけ聞けば、私には大体の出題予測ができる。そこで試験が近づいてクラスが内職を始めるようになると、私は机間巡回をしながら、どこを丁寧に学習したらいいかをその生徒に「雑談」してやった。★あるとき、不思議な事件が起こった。年末のころだったが、クラスへいったらクラスが興奮して大騒ぎしている。紙吹雪を飛ばしている者すらあった。どうしたのかと聞いたら、今回の試験で、このクラスがいくつかの科目で平均点が学年一になったのだという。よほどうれしかったのだろう。★皆の興奮が収まったところで、「どうだろう。相談があるが、このあと教科書を使って本来の倫理社会の授業を私にさせてくれないだろうか」と頼んだ。★この生徒たちが、大学には進学しなかったが、立派に生きてゆく志を固めるきっかけになってくれれば、私は嬉しい。
2017-12-29 20:18:00
私は、別に大歌手でも、大作家でもない。誰かと「共に生きる」といっても、そういう範囲は、知れたものかもしれない。しかしそれでも、それなりに広く人とともに生きた一期(いちご)というものは、いくつかないわけではない。★ここに、おそらく誰も知らず、誰も気が付かない私の一期の一つを、思い出してみたい。★当時私は北海道大学に学籍があって、倫理社会の臨時講師として小樽桜陽高校に週3日、札幌から汽車で通っていた。当時は快速はない。毎回普通列車だが、本を読むいとまができて通うのも苦痛ではなかった。読書に飽きると、札幌ー小樽間の車窓から見える日本海が、よい慰めになった。★その年度私が割り当てられた3年某組のクラスは、教室にいって驚いたことに、理科教室を使っていて、机はすべて6人ぐらいずつ組みになっている。どうしてこんな教室にこの3年某組が割り当てられたのかといえば、私におもいつく理由はただひとつ、このクラスが「就職組」で、大学への進学勉強とは無縁のクラスであることだろう。★すっかりクラスの気分がしらけきっていて、授業を聞こうという意気込みはまったく感じられないクラスだった。★私は、まったくの一存で、授業などしないことに決めた。「カントが何世紀の人か」とか、「デカルトの有名な言葉が何か」とか、そんなことをしていて何になろう。★私はちょうど彼らの座っている状態がグループ学習に向いていることに目を付けた。「どんな本でもいい、好きな本を一冊決めよ」「その本を読んでいる感想をこの時間にグループの人(5人いる)に話してくれ。そして他の人の感想も聞きなさい」と指示した。彼らは素直に私の指示通りに行動してくれて、毎時間毎時間熱心に話し合っていた。(もう一回、続きを書きます。)特に面白い話が出てきたら、クラス全体にも披露してくれとも言っておいた。
2017-12-28 23:01:00
私は以前、年齢の異なる何人かの人々と、哲学の討論会をしたことがあった。あるとき、継続して出席していた若い女性の出席者が、私に面談を求め、こう聞いた。「人は、死んだあとどうなるのですか」★この問いは、明らかに、「私は、死んだあと、どうなるのですか」という問いである。そしてこれはおのずと、「あなたは、死んだあと、どうなるのですか」という問いでもある。★私はこう語った。「あなたが共に生きた人の心の中に、あなたが生きています」★この哲学の討論会は、1年ほど続いて、終わった。参会者間の交際は、その後ない。そもそもこの会合は、私も、参会者も、その外部で作られた枠の中で起こり、終わったものであるから、たいへん熱心に、参会者の中の数人は心を傾けて語り合ったが、自分で自主的に作った会合ではなかったので、「終わって、消滅する」のは致し方ない成り行きであった。★だが、たとえ成り行きが何であろうと、「人が、死んだあと、どうなるのか」という対話は、私とその女性が自ら生み出した対話である。消すことはできない。★哲学の会合にあって、この対話は、宗教的性質の対話である。形而上学どころか、いわばドグマたらざるをえない。ひとにはドグマも必要なのだ。★論理的には、この話の外側に、もうひとつ広い世界がある。「共に生きた」ということの中には、直接的な関係ばかりではない。たとえば、ある歌手の歌唱が、多くの人々の心に残した思い出のような性質のものもあるはずだ。この「共に生きた」世界は広々としているが、同時に間接的でもあることは免れないであろう。ひとによっては、こういう広い世界に強く期待する。
2017-12-25 10:36:00
北海道新聞29年12月25日号10ページに、「ゆっくり送れる家族葬」という記事が載った。これを参考に自分の葬式を設計してみよう。 ★親族・知友10人程度の招待で、自宅仏壇の前で葬儀会合をする。寺は呼ばない。戒名はなしとする。近所の人々も呼ばない。香典はなしとする。各自に個人の思い出を語ってもらう。簡単な形見分けはできよう。(後日お別れの会をすることもあるかもしれないが、なるべくはしないほうがいい)焼骨、合葬は親子だけで行う。「葬式会合」に出た遠隔地の人を当日の夜、定山渓温泉にでもハイヤーで送って、泊まっていただく。(つまり、流れ解散) ★世間的に見れば、まさに「雲隠れにけり」だな。 近所で行われた(らしい)最近の葬式は、多くが、近所にまったく知らせずに行われた。(後でわかった)。こういう時代の流れであろう。
2017-12-25 10:16:00
これは最近手にした「衝動的」内容の本の題名である。児玉 修『仏教崩壊』文芸書房、2003年。 ★本書は、葬式仏教という現在の日本仏教の在り方が、仏教寺院の檀家制度の所産であることを、すっかり見抜いている。きれいに見抜いている。★しかし本書には、仏教という宗教のありうべき再興についての、願いがこめられている。この点にこそ本書の読みどころがある。この願いがあるがゆえに、本書には、現行の仏教寺院と僧侶の宗教的覚醒を促す材料がいくつか、示されている。いってみれば本書は、現代日本に必要な、日本仏教の宗教改革を促すものである。 ★本書が、合葬や、末期医療や、ホームレス問題を考えるのは、たんに檀家制度批判だけでは、仏教という宗教が再生する契機がまったくないと考えるからであろう。★いわく、葬儀に真の祈りを取り戻すために、合葬を考える。★いわく、末期医療において、僧侶が欧米のキリスト教のチャプレンのように、死を前にした患者に寄り添って、人が死とどう向き合うのかを考える。★ホームレス問題において、寺院を社会事業としての基盤として役立てられないかを考える。★要は、あまり形而上的大問題に考えないほうがいいのかもしれない。多くの宗教家は大げさな思弁を重ねながら、シンプルな大問題を回避している。 ★これこそがわが「シンプルライフプラン」の要諦であり、わがブログの眼目かもしれない。
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