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2016年2月29日月曜日、午後11時、札幌の天候、続。午後、各家庭は、これまで積もった水っぽい積雪の除雪に追われた。ヤフーのお天気情報では、今晩夜半から明日朝まで、札幌は滅多にない吹雪に見舞われるかもしれないと。
マイナス金利の天気予報。現在の経済の現実に軸になっている株式会社についての論議が続いている。
前回は、奥村 宏、法人資本主議論を紹介した。この問題を議論するものは必ず奥村説についてまず徹底した学習が必要だろう。
ところで、この奥村・法人資本主義論は、経済学とのかかわりを拒絶している。
そのこと自体は、わからぬでもない。
近代経済学のマクロ経済学は、その中軸に位置している「企業」の性質をまったく「ブラックボックス」のままにして議論している。これではとても現実的な議論はできない。
マルクス経済学は、「企業の規模の大きさ」、「企業の生産力の発達」を、まるで錦の御旗のように、その価値を信じきっている。規模だけが、生産力だけが、絶対的な価値ではあるまいに。「独占」を議論すればすっかり「独占」ばかりの議論をしたがる。
こういう経済学が、現実にかかわれるものかどうか、奥村さんはきっと嫌悪感をもたれるのだ。私は、この点では奥村さんを支持する者である。
しかし、まったく経済学とかかわりなしに、議論を進められるものなのかどうか。
仮に株式会社が奥村さんのいわれるような「まともな」性質のものでありさえすれば、それで経済社会はうまく立ち行くものとおもわれますか。
19世紀のイギリス資本主義の場合には、地主階級が「社会の調整者」としてふるまっていましたね。経済社会がいわゆる「資本主義経済の自律性」を持ちえたとしても、その上に社会の調整という議論があります。地主階級のような「調整者」がいたから、19世紀のイギリス国家は「自由放任」と嘯いておれたのではありませんか。(しかし20世紀にはそういう条件はないんですよ)
2016年2月29日・閏年・月曜日、午前9時。札幌の天候。朝からまるで雨でも降るような勢いで小粒の雪が降り続いており、視界が曇って、ホワイトアウト状況。さいわい風はそれほどではないが、もしこれで風が強ければブリザードになるだろう。昨夜来の積雪は10数センチ。午後から雪はやむという天気予報だが、午後になってみなければわかるまい。明日は雪という天気予報。なかなか春になってくれない。
マイナス金利の世相の、天気予報。株式会社を取り上げてきた。
前回、19世紀イギリスの資本主義では、営利事業には株式会社制度の適用が社会的に認められていなかったと書いた。
19世紀末から20世紀初頭になると、ちょうど世界史的に重化学工業の振興期にあたったこともあって、事業の資本規模を拡大するために営利事業に株式会社制度が採用されはじめるようになった。
しかしこの過程は考えるべき様々の問題を残している。たとえば独占資本主義は、その一例。ケインズなりマクロ経済学なりのように、「企業」を当然の前提のように議論するのは雑な議論であろう。
私達日本人には、株式会社制度を根本から反省するための必読書がある。奥村 宏『法人資本主義‐‐「会社本位」の体系』朝日文庫、1994年などの、奥村 宏さんが執筆した一連の著書である。これらは第2次大戦後50年間の日本の歴史的現実を詳細に踏まえているので、日本人には身につまされるほどよく分かる。
奥村さんの議論のほんの一例。
「法人企業」はヒトではないのだから、その法人企業が当然のように政治献金するのはいかがなものか。
「法人企業」は元来生産的投資を集める手段だとおもうが、それが別の企業を買収することを目的にしたり、なんら生産とは無関係な活動を主力としたりするのは、いかがなものか。
ぜひウイキペディアで奥村 宏と引いて、みていただきたい。
1966年以来2013年までに及ぶ「法人資本主義」関係の大量の著書名が示されている。
「法人による株式所有によって成立する日本の資本主義を法人資本主義と名づけた」(同ウイキペディア「奥村宏 実績」より)
法人資本主義を、
1. 株式所有の空洞化をもたらしつつ、業績にかかわりのない株高構造を支える。
2. 系列内外を問わず業務提携を支える持合が、企業経営に対する監視機能を喪失し無責任体制を構造化、ひいては、
3. 会社不祥事の続発に歯止めをかけることのできない経営構造を生み出し、
4. 死ぬまで会社にしがみつく「会社本位人間」が成立する前提とすらなっている、
と(奥村 宏は)分析した、と同ウイキペディア中に書かれている。
「マクロ経済学」の日本の経済社会についての現実が、このような「法人資本主義」体制であったことを度外視して、たんに教科書的に日本の「マクロ経済」を語ることは、空疎であろうと思うよ。
2016年2月28日、日曜日、午後2時、札幌の天候。朝からこの時間まで晴れていた。風もない。気温は定温。暖かい。昨夜の積雪はない。
ヤフーお天気情報だと、今晩から天気が崩れ、明日一日悪天候だという。3月2日ぐらいから気温は上がってくるだろうという。
日銀マイナス金利の天気予報、つづき。企業(株式制度)は昔は営利事業に適用できないものとされていたということを書いた。
資本主義が世界史的に確立したという19世紀のイギリスの場合、株式制度は営利事業には使ってはいけないものとされていた。
それなのに、なぜ今日のような株式会社のありようが、当然のようにされているのか。経済を基本から考えるときに押さえておきたい論点である。
この論点は、アダム・スミス『国富論』、マルクス『資本論』、に出てくる。森あきら『株式会社制度』北海道大学図書刊行会、1985年という300ページほどの本に、詳論されている。(北大経済学部に企業形態論という講座があり、この科目を取った人なら読んだ覚えがあるはずだ。)
株式会社にあって、社員(株主)が会社に出資して株式会社が成立するわけだが、社員(株主)が出資額以上の責任を問われない、いわゆる「有限責任」が、真っ先に議論されよう。株式会社は個人資本ではとうてい果たしえないような大きな資本規模を成り立たせるのだが、この会社を信じて会社と取引する公衆にとって、資本金では果たしえない債務には会社が応じないのが、「無責任」の一番分かりやすい切口である。(だからこの株式会社制度が営利事業に適用され始めた当初には、会社資本金は払込資本金とその何倍かにわたる「名目資本金」のように二重になっていて、会社が倒産に瀕すると急遽株主から「名目資本金」の分も払い込ませようとしたのであった。)
19世紀イギリスの場合、株式会社という制度の適用が社会的に認められているのは公益的事業のみである。
そしてイングランド銀行(中央銀行)は、当時、まさしく株式会社としての適例とされるのである。ちょうどイングランド銀行は19世紀前半にピール銀行条例が成立し、19世紀後半にはイギリスの通貨発券がイングランド銀行に集中し、今日言うところの中央銀行(銀行の銀行)の姿を完成させたところであった。
イングランド銀行(中央銀行)の通貨発券は、公衆にたいする債務であり、この債務に責任をとりつつ、「通貨安定」の任務をはたすのがイングランド銀行の使命である。イングランド銀行の責任は根本的に公衆に対して負うものであり、政府に対して負うものではない。この論理が中央銀行の「独立性」の基本的性質である。政府もまた公衆の一員である。
もちろん中央銀行と政府の間柄はたいへん緊密なものではあるが、ある一線を踏み外して政府寄りになりすぎれば、「政府のご用銀行」、「政府の機関銀行」のそしりを受けよう。
この議論の出発点に、「中央銀行が株式制度をとっている」というかかわりがあることを、思い出す必要があろう。
さらに、株式会社について考えさせらる、いくつかの基本的論点を示すことにしたい。
(ただ、ここでいえることがあるよ。例の我が国の放送法の規定だが、放送局は放送の公平についての責任を公衆に負っているのであって、
決して政府に負っているのではない。そのことは中央銀行の発券債務の責任を中央銀行が公衆に負っているのと基本的論理において似ている。もちろん中央銀行の責務については過去に膨大な理論と歴史と法的処理があるが、放送局の場合にはそれほどの集積がない。しかし公衆と放送局に多少の気骨があれば、これからでも確立したらよかろう。)
2016年2月24日水曜日、午後9時、札幌の天候。今日の札幌の天候は、結局、今冬最悪だった。日中始終粉雪が舞い、強い風が吹く。通行・交通共に難渋する。昨夜の積雪は、札幌市内でも場所によって非常に違うとおもう。平均15センチだが、場所により30センチぐらいまであった。雪の質が粘っこく、作業用具にまとわりつく。それ自体は粒が小さいが、始末が悪い雪だった。
そして気温が冬日で、ぐんと低い。
こういう感じの天候が、これから数日続くと覚悟せねばならないのだろうか。(そしてその反面、これが今年の冬の収まり方という感じもする。)
ちょうどこれから、国立大学の入学試験、そしその発表へと、繋がる季節である。受験生は不順な天候に要注意だ。
クリントン大統領候補が、「日中の為替安誘導」政策に批判的な言説を行なっている。また「TPPに反対」とも言っている。これはいったい何を狙っての発言なのか、よくわからないが。
2016年2月23日、火曜日、午後8時、札幌の天候。今日は曇り。ときどき雪でした。せいぜい積もって1‐2センチでしょう。昨夜の積雪はなし。風なし。気温は少し寒く感じました。この程度の天候がこれから1週間ほど続くようですね。
さてマイナス金利をめぐる経済学の展開という議論の続き。前回(第1回)では、経済主体として個人事業主を想定しました。今回は企業を想定しますよ。
現には企業が、経済社会の中心単位なのだから、個人事業主ではなくて企業を中心に考えるのが現実的であるということになりましょう。
しかし多くの人々の心の中では、やはり個人が経済社会の中心単位なのであり、現実に百年前には個人事業家が中心単位だったのです。
個人が中心単位だった経済社会から企業が中心単位の経済社会に、経済社会が移行してきたのです。だから、昔は個人単位だったかもしれないが、今は企業単位なのであろうと。
今の経済社会では、生産活動(あるいは商業活動かもしれませんが)を行っているのは基本的には企業(株式会社)であり、その企業は外部から資本の投資を受け(いわゆる出資を受け)、出資を受けた資本をもとに企業は生産活動を行なうのです。すなわち企業は、生産財を購入し、労働者を雇用して、生産活動を行なう。生産財と労働は、「生産要素」であって、企業が前以て持っているものではありません。これが企業の行なう「投資」の内容なのです。
個人事業主と企業とで、資本の意味内容、投資の意味内容がずいぶん違ってきていることが、容易に理解できましょう。
企業は個人事業主の場合とは違って、投資に際して決して「現在の消費を節欲している」のではありません。そもそも企業はヒトではありませんから、消費をしません。企業が生産財を購入するのは生産のためであって(生産的消費といいます)、消費のためではありません。企業の投資はその内容からいえば「生産要素」になっているわけです。
企業が他の企業に「貸す」こともありえます。これは他の企業の生産活動を助けることになりましょう。企業(株式会社)はマネーを外部から出資してもらって成立します(自己資本)が、企業が資本として生産要素を買うマネーは、外部から「借りる」こともあります(他人資本という)。このように企業間でマネーを貸したり借りたりする際に「利子」が付きます。この「利子」はとうぜんにプラスの利子です。
ところで、ちょっと待った。第1回の個人事業主中心の経済社会と第2回の企業中心の経済社会へと、議論を淡々と運んできたが、この運びにはだいぶ飛躍がある。この移行は一朝一夕で進んだのではない。
この移行の分岐点に横たわる重大な問いは、いったいいつから、いかなる理由で、私的な営利事業に株式会社制度を適用することが許されるようになったのかと言う点です。(19世紀には私的な営利事業に株式会社制度を用いることは社会的にはありえないこととされていました。)次回はこの論点に進んでゆきますから、また読んでくださいね。
これは中央銀行制度の社会的な評価にかかわる重要な論点なのです。いま話題が日本銀行のマイナス金利政策の採用というきっかけで起こってきたので、たいへんに珍しくも、この論点が浮上する好機となったのです。なにしろ19世紀的株式会社制度の第1級の歴史的好例がイングランド銀行(イギリスの中央銀行)でしたので。わが日本銀行も株式会社日本銀行なのですよ。