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2022-11-14 20:30:00
リチャード・クー『デフレとバランスシート不況の経済学』徳間書店、2003年(続き)。私たちは現今の日本経済で、「デフレ 」という言葉に、思う存分振り回されている。何がどうなぜどのように「デフレ」なのか、自明のように語られているが、これをいかんなく説明できる人は何パーセントいるだろう。デフレといえば、市場で供給過剰、インフレといえば市場で供給不足。100人が聞いていれば大概そうしか考えないし、デフレを克服する「インフレターゲット何パーセント」なんて言えば、大概、何か恐ろしく単純な技術的問題だと思うだろう。しかしむろんこれは技術的に聞こえはしても、単純な技術問題ではあるまい。クー氏が使った「デフレ」という言葉も、一見恐ろしくいい加減に聞こえた。/そもそも恐慌が長期の不況になって持続すること自体、従来の資本主義の歴史では稀有のことだった。1930年代の米国の大不況(どこで終わった?クー氏は1960年近くになってようやく1930年の資産価格を回復したと言っているありさま)、1873年から二十数年続いた英国の大不況。この2回しか、歴史上認知された「大不況」はない。その他は、19世紀の産業循環がそうだったように、恐慌は年内に終わる・10年程度で景気は循環するというていのものだった。ここを変更する議論は単純に数理的代物ではない・歴史的政治経済学である。ケインズ経済学は恐慌解決に財政資金支出を提案している点で、これは単純な数理経済学ではないのだ。ミクロに対するマクロの視角は、純粋経済学のものではあるまい。(だからミクロとマクロの統一とかが、もともと単純に議論できるはずのものではあるまい。)/いまクー氏の議論を理解する感想を言うのだから、以上のような議論はさしあたり割愛する。クー氏にとってはなくていい議論だから。
2022-11-14 18:51:00
リチャード・クー『デフレとバランスシート不況の経済学』徳間書店、2003年。私は長年、経済ニュースで、一向に真意がわからない語句がある。それは、構造改革、内需、バブル、バブル不況、規制緩和、規制撤廃。それじゃ過去30年間ほど、日本経済に関してあなたは何もわからなかったろうと言われれば、「しかり、さっぱりわからなかった」というしかない。これらの言葉は経済を説明しているはずだ。しかしこれは明らかに通常言われる経済学の言葉ではない。これらの言葉が、どうして、どのように、日本経済の説明になるというのか。自分がわからぬ以上、私はこういう言葉を、私自身で日本経済の説明に使ったことは一回もない。/クー氏の「バランスシート不況」という言葉を以前初めて目にしたとき、一瞬「なんだこれは」と思った。いま日本経済全体を問題ににしようとしているとき、「バランスシート不況」という言葉は、これはあきらかにミクロの経済主体を問題にしている言葉ではないか。ミクロの経済主体とは、この場合、個々の法人企業のことであろう。個々の法人企業のバランスシートが「壊れている」ということだろう。恐慌による資産の(当然に、資本の本体であろう)価格暴落が生じ、法人企業は、その資産の購入に用いた負債を、資産価格暴落にも関わらず相変わらず暴落以前の価額で返済を続けなければならぬ・高率の利払いを続けなければならぬ。こういう恐慌後長引く不況期の事態を「バランスシート不況」と呼んでいるのであろう。このように法人企業のバランスシート中の資本価値が「棄損」されている事態を「バランスシート不況」と呼ぶのだろう。ここまではすぐわかる。「それなら、当該企業は、速く損切りして、出直せばいいではないか」。それが出来ない企業は市場から退出すればいいではないか。数分でこう読んでしまうと、これ以上話題に拘泥する気を失った。それが二十数年前、初めて「バランスシート不況」という言葉に出会った感想である。/しかしそれから幾星霜。日本経済は相変わらず得体の知れない状況を続けている。今回、丁寧に読もうという気を起こし、今回ようやく二十年前の蒙から覚めた。これは正論だった。(続く)
2022-11-11 21:37:00
河北新報社『河北新報の一番長い日』つづき。残念ながら、2011年の東日本大震災が、「もっぱら自然災害だった」としたことは取り消さざるを得ない。東日本大震災には「人為的災害の側面があった」、それどころか「結局人為的災害が主要な側面になってしまった」と、言い直さなければならないかもしれない。言わずと知れた、原子力発電問題である。災害それ自体で考えてさえ、宮城も岩手も復興の目鼻はついたが、福島県の海岸部は、いつ復興するものか、住民が現地復帰して曲がりなりにも地域の生活が取り戻せるのがいつの日になるのかすら、明言できそうもない。福島原発に溜まりにたまった汚染地下水の処分についての明瞭な目鼻はいまどうついたというのだろう。福島原発の被った災害は世界中に衝撃を与えた。「日本のような科学が進歩している国ですらこのありさま」という深い反省から、ドイツは原発を廃止する決断をした。ところがいまだに日本は、何やらかにやら理屈をつけて原発を維持しようという考えを捨てない。このような狐疑逡巡が日本で続けば続くほど、東日本大震災の主要な側面は人災だということになろう。人災は人間が起こしたものであるがゆえに、人間がもっとも対処しにくい災難となる。いまでも話題にはなるのだ。当時たまにこういう会話があった。某君いわく、女川原発は、市街地女川がほぼ全滅したのに、ちゃんと生き残ったじゃないか。別の某君たしなめて曰く、女川湾が特殊の地形でもあった。津波襲来当時かなりの数の住民がなんと女川原発の屋根の上に退避した。この人々は助かった。震災当時東北大学はうんともすうとも音を出さなかったが、仙台にいた弟はおそらく東北大学方面から原発にかんするさまざまの思考を漏れ聞いていたのに違いない。であれば、福島の放射能が仙台市までくると確信したのだろう。この河北新報は、はっきり言って福島を二次的に扱った・そもそも社員が平時でも福島に10人といない。都会地と全国紙が原発中心のニュース展開しているとき、河北新報はむしろ岩手や宮城の「普通の」震災を主眼にした・ある意味で当時としてはユニークなのだ。中国人留学生が中国本国の通達で本国に帰ろうとして・踏みとどまった「美談」がこの本に記録されているが、米国本国はいち早く日本は危険とみて、居住している米国人を日本から脱出させる緊急決定をした。おかげでそれまでたくさん日本にいた米国人英語教師がどんどんいなくなってしまって、日本の英会話教育はとん挫した。宮城県は女川原発を擁するので元来発言する能力をもっているが、まるでタブーのように原発を語らない仙台。語ってゆけば話題にきりがないなあ。
2022-11-11 10:02:00
読書の感想。河北新報社『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 それでも新聞をつくり続けた』文芸春秋、2011年。 2011年に起こった東日本大震災に対処して、仙台市に本社がある東北地元の新聞社・河北新報社がどのように存続し、地元に寄り添った新聞作りを行ったのかという真摯な記録。震災当時は不本意ながら目を背ける心理が働いていた本を改めていま読む。読後に不思議と残る爽快感は、自然災害を相手に人間同士の扶助と共感の努力がもたらすもので、これが人間同士の醜いエゴのぶつかり合いである戦争・戦乱であれば、どっちが勝った戦争であれ後日に爽やかさなど残りようもなかろう。本書は、当時の地域的な記述を読みながら、そこに生きた人々の心理や感情が、よくうかがい知ることができる。(当時名取市に生きた方々の心細い心理、当時仙台市にあって、福島の放射能の影響をひじょうに恐れていた弟の心理、よくわかる。救援物資を送ったら、自分はこれをとりに自転車で向かうのだが、空中に放射能の危険が高いのだぞと叱られた。)いま私たちはコロナの流行(もう三年になる)と戦っているが、生きる条件を捜しつつ、家族を地域を社会を、とにかく存続させようとしている。いまこの当時の河北新報の記録を読むにつけても、自然災害であるコロナ禍に対して、人間同士の助け合いで切り抜けられないはずはないという思いを強くする。
2022-11-08 21:41:00
読書の感想。京極夏彦『書楼弔堂 炎昼』集英社、2016年。たいへん風変わりな内容の本で、立派な装丁に仕立てられた、五百頁余の分厚い本である。しかし古書価格は滅法安かった。開いてみれば、縦書きで、思い切って粗っぽく、ゆとりをもって編集されている。いきなり何か怪事件が起こるわけでもないので、最初気が抜けたような感じで、のんびり書かれている。すぐは読む気が起こらず、長い間書棚に放置していた。このほど、たまたま開いてみて、読み進んでゆくと、これが恐ろしくまじめな内容の小説。訪問者がある書店に入って、書店主に人生の大事を相談するという話。六話あり、明治期の人物が問う人生の大事に、書店主が答えてその「答え」の重要な手掛かりになる本一冊を、訪問者に与えるという話。なにしろ時代を明治期に移して舞台を設定しているところが凝っている。この誰かの「人生の大事」とそれへの書店主の応答が、ある種の一般的普遍性をもっているところが、読みどころであろうか。なにせ著者が文献を通じて得た広範な知識を駆使して描かれていて、生半可にはとてもこういうものは書けまい。(私は言語における共通語と方言の関係を考えていたから、はからずもこの本の著者の見識が参考になった。)内容は詳細にバラしてしまうのはルール違反かと思う。これは推理小説の性質も持つのだろうから。訪問者が誰なのかということだね。クライマックスで「泣き虫さん」という訪問客xが登場する。かつて芥川がこのxを批評した文章を書いているが、この芥川評と対比すると、著者のx評は無限に優しいと思う。しかし考えた。現代でいうとこれは図書館の参考係の役目だ。理想の参考係がいて、図書館はおろか、出版された本全部を、インターネット上で集約して、人生の岐路にある入館者に「これ一冊」を推奨する場面を夢見る。このイメージはある程度、アマゾンやヤフーや楽天やの上に存在するが、ちと商業的だな。純粋にボランティアでは果たせぬかな。我と思わん人、現代の書楼弔堂を考えてください。