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2018-07-14 14:05:00
2018年7月14日土曜日・曇り・札幌。★今日のウエブ。いきなり人を驚かすニュース。本州で今夏7‐8月、40度を超すような猛暑が予想されるというのだが、原因は日本海の暖気が本州に南下するからだと。理由はどうもぴんと来ないが、いったい40度を超す気温をどう凌ぐのだろうか。★セパ対抗オールスター戦の二日目。午後6時半。藤崎大。テレビHТV。BS朝日。ラジオHBC、SТV。昨日のオールスター戦見ていたが、結局ホームランの応酬で、いわばホームラン合戦だ。ふだんの日本ハムの勝利ばかり見ている眼には、さっぱり面白くもなんともない。★「民泊新時代」道新19頁。★「札幌競馬場に遊園地」道新21頁。札幌には子供が喜んで集まる大遊園地に乏しい。せいぜい「茨戸遊園地」か。ちょつと遠いけどね。しかし競馬場に行くのにどういう交通機関を使うのか。わたしもすぐは思いつかない。競馬場がJR桑園駅の北にあるのはわかるが、まさか桑園駅から歩けとは言うまい。★「収穫減る、農家悲鳴」道新10頁。北海道内の話だ。大雨の被害は後から続く。★広告「さば水煮缶健康レシピ」道新3頁。私はサバとさんまの缶詰の愛好者。100円程度で買えるし。ふだんおかずがたりないときに困らない。★「非正規最多の2133万人」道新2頁。雇用者の4割が非正規だという。この社会の政治が根本的におかしい。働く者が食べてゆけなければ、社会は存続できないぞ。★「入管庁設置政府検討」道新1頁。省庁体制をかなり大きく変えようという予想される目玉の一つが、この入管庁の新設だという。事実上外国人単純労働者の受け入れが必要になってきて、その領域を農業、建設、宿泊、介護、造船に広げてゆこうという様子が見て取れる。
2018-07-13 10:36:00
2018年7月13日・金曜日・曇り・札幌。★プロ野球オールスター第1戦。19時。京セラ。テレビHТB。BS朝日。ラジオHBC、SТV。★北海道新聞より、「民泊新時代」21頁。札幌市内中央区山鼻地区で個人的に開業している実例をリポートしている。今後ともうまくゆくといいね。この山鼻地区。民泊はすでにある程度広がっていたので、商店街の活気にはっきりと結びついてきているようだ。この辺に宿をとる者は、至近距離にある中島公園を十分に利用できるし、市電を脚として利用すれば市内の多くの場所にすぐに行ける。実はこの山鼻地区のひとつ北側のブロックまで既に小型のホテルが何軒も建っている。早晩山鼻地区もホテルが建つのが当たり前の地区に変わるだろう。当方管理のアパートが台湾総領事館のすぐ北にあるが、この辺は台湾の人が安心して宿を取りたがる場所だ。「管内民泊登録600件超」道新16頁。圧倒的に札幌市中央区に集中し、家主不在型が主流という。とやこうや言う暇もなく、民泊ブームの中に巻き込まれている感じ。私は必ずしも自分が経営することは考えていない。妥当な人がやるのを支援すればよい。ただ、相互の「信頼」が必要。どうですか。すでに当館に住んだ人がこのページ左側の「問い合わせ」欄からコンタクトしていらっしゃいませんか。ご一緒に山鼻地区等を研究しませんか。★「札幌市役所を全面禁煙」道新20頁。そうこなくっちゃ。★「読者の声・自国第一主義を脱却せよ」道新6頁。「世界恐慌後の1930年代、主要国が植民地を取り込んでブロック経済化を進め、これが第2次大戦の一因となった。自国第一主義は世界に深刻な混迷を招きかねない」。適切な指摘をしてくださった。★「トランプ氏、NATO会議で法外要求・欧州を恫喝 亀裂拡大」道新7頁。「同盟国の防衛負担」が軽すぎるから、もっと上げろとトランプ氏は言う。GDP比2%に上げろ、いや4%だと、放言する。それも、「すぐ上げろ」。そしてさまざまの「報復措置」をちらつかせる。これが同盟国のやることだろうか。日本の立場は欧州の立場と共通するところがあるので、他人ごとではない。
2018-07-12 23:07:00
もう1ファイル、書かせていただきましょう。わたし、前に、日本ハムの試合を上演されている演劇に例えた。よく演劇で言う「序破急」。野球の試合の展開で例えれば、1-3回は、序で、先発投手も張り切っているのでなかなか打てない。それがさすがに4‐6回になれば先発投手も草臥れてくるし、打者もずいぶん慣れてくるから、試合に転機が訪れやすい。これが、破か。そして7‐9回と、中継ぎ投手に変わり、代打起用も交えて、最後の土壇場になだれ込む。これが、急。この一般論はあまり崩れないので、チームもフアンも当然視していると思うのです。★しかしこの個々の過程で、選手の置かれる状況は刻々と変化する。必ずしも想定されたワンパターンの対応だけでは済みますまい。★ところで個々の選手はかなり違う力能を持っていることが当然だと思われている。単純に将棋に例えると、飛車もおれば角もおる。歩がいれば香もいる。桂もいれば銀もおり、金もおる。しかしある試合場面では、「値打ちの高い駒」が必ずしもその場に有用ではありますまい。必要なのが銀の働きなら、飛車ではうまくゆくまい。時にはもっぱら歩の働きをさせるために香を使うしかないこともある。★ゲームの運びを指図する者は、現実に具体的にどんな働きがゲームの過程で現れるかを細かく分析して、それに間に合う者をその「役」に立てることになろう。そして相応の指示を出すことになろう。その「結果」は、監督の責任であろう。日本ハムはきっと機能フアンクション分析が非常に発達しているチームではないかという気がします。選手はたんに全力を挙げるのではなく、その「役」に与えられた使命をよく承知して「演じなければなりますまい。」★実際には多くが「企業秘密」ではありましょうが、日本ハムはただ「いい選手」を取って働かせているわけではないでしょう。どのチームもこういう性質はあるとは思います。しかし日本ハムが徹底しているのではないか。★試合をぐんぐん運んでいけば、選手が試合にうまく乗ってくれる。これが勝ち戦の場合ですね。★ただ、こういう方針。機械的に聞こえたら、面白みがない。ただ勝ち負けするのではなくて、面白みはどう出すのか。こういうこともきっと考えておられるに相違ない。選手の誕生祝をするとか、両親が観戦に来たとか、そういうことを超えた「面白み」です。フアンも選手も、感情の動物です。
2018-07-12 18:17:00
「囲碁。将棋と比較しての野球」をもう少し語らせてください。前掲米長『碁敵が泣いて口惜しがる本』「自分の言い分だけ通そうとするな」は、囲碁と将棋の違いをこう説明します。「一局の碁の時間の経過を横軸にし、一手の価値を縦軸にしたグラフを考えてみると、最初は10目のところからスタートし、中盤にかけて30目、40目と上昇し、やがて20目、10目、そして7、6、...3、2、1というように下降し、ついにはゼロ、つまりダメを詰める時点で終局となるわけです。」他方で「将棋のほうは、最初の一手の価値がゼロの状態からスタートします。そして、一手ずつ指し進むにしたがって、だんだん手の重みが増していきます。」(そして将棋は、王様が取られて終局するわけです。)★ここでいうアナロジー(比喩)は、容易に理解されるものではないでしょうか。野球というスポーツのゲームの性格は、上の比喩では囲碁の勝負の運び方と重なります。囲碁が占領する自分の地(何目と計算する)の大きさを試合の最後に比べて「白何目勝ち」だから「白軍の勝」とするように、野球は取った点数を試合の最後に比べて、「先行、何点勝ち」だから「先行軍の勝」とするわけです。それに対して将棋は、試合が始まったらいつでも、王様が取られたほうが負けというルールです。★野球は通例、表裏9回戦で成り立っていて、この9回戦った点数全部を比べて、どちらのチームが勝ったのかを決めるわけです。それなのにどうして、野球の観戦を、将棋の試合を見るかのように見る人が絶えないのでしようか。並外れたやつがいて、そいつが並はずれたことを(ホームランまたは長打)すると、これでゲームがほとんど決まるという豪快なものなんだ(将棋感覚)。こういう「豪快」さが野球の一魅力になっていることは否定できません。そういう特別の身体能力を誇る選手がフアンの喝采を浴びるのも当然かもしれません。しかし野球というゲームの本性自体は、選手個々の身体能力の特別さとは別に、個々の選手の力能にそう差がなくとも(いわば均質でも)、プレー中にその選手が置かれた場・状況によってやることの値打ちが異なってくるというゲームではありませんか。(碁石は均質です。しかし着手の価値が違う。)★日本ハムのようなチームは、この当たり前の理屈に、頑固にしがみついているチームなんじゃないんですか。(もちろん事は単純ではありません。それにしても大所はこの点にある。どうでしょう、栗山監督。)
2018-07-12 13:15:00
囲碁・将棋は、野球とは全く異なるゲームである。しかし日本人にとっては野球同様、たいへん身近でポピュラーなゲームである。私は先ごろ、将棋の名手である米長邦雄氏の好著『碁敵が泣いて口惜しがる本』祥伝社、昭和61年、を読んでいて、ある個所ではったと膝を打った。たいへん地味な議論だが、これが栗山監督率いるわが北海道日本ハムファイターズの「優れた特性」を(すくなくともその重大な一側面を)いかんなく説明するものではないかと思われるからである。(日本ハム論がついに囲碁将棋論を援用するのか)★この「深遠」な議論。この本の142頁から152頁の間に書いてある。タイトルは「(碁に勝つには)自分の言い分だけを通そうとするな」。ここで米長さんの話は、「碁は調和のゲームだから、一方的に取るのではなく、相手に与えるものを与えながら自分も得る」という着手の連続となるだろうという。(常にギブアンドテイクの繰り返しなのだ。最期に自分の領分・地が多いほうの勝。まさに野球のようでしょ。)次に女性棋士の戦い方を批評し、彼女らが壮絶なケンカ碁を盛んにすると言い、こういう「感情のほとばしり」は見ていて実に楽しいが、「囲碁発展300年の伝統からすれば、囲碁発展の道に外れている」とする。(その分だけ、男の棋士より、弱い。女性の高段者は男性高段者に比較すれば素人。しかし、わかっちゃいるけど、血が騒ぐのかな。)米長さんの考えでは、「将棋は男性的なゲームだが、囲碁は女性的なゲームである。」(ゲームの本性上そうなので、この断言は覆らないねということでしょう。)その説明。「これは序盤・中盤・終盤と移行していく(囲碁の)過程での一手の価値を、将棋と碁で比較した観察に基づくもので、碁の場合、最初の一手は約十目の手とされています。これは、先手に十目の約半分に相当する五目半のコミを与えていることで明らかでしょう。そして、序盤戦から終盤戦にかけて一手の価値が大きくなります。(たとえば)相手の石をポン抜くのは三十目というようなことです。」「さらに、終盤戦になるにしたがって、一手の価値が十目とか十五目とかに下がっていき、ヨセになると二、三目になり、最後には半目を争ったりします。そして最後には、ダメまで詰め、ハマを計算して、ようやく何目の勝になる---これが碁です。」(野球と同じですね。結論がもう想像お出来になると思うが、念のためにもう一ファイル書きましょう。)一般論では豪快に戦うのが「男性的」ですが、米長さんは女性棋士の好戦性を皮肉ったのです。