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2018-07-12 18:17:00
「囲碁。将棋と比較しての野球」をもう少し語らせてください。前掲米長『碁敵が泣いて口惜しがる本』「自分の言い分だけ通そうとするな」は、囲碁と将棋の違いをこう説明します。「一局の碁の時間の経過を横軸にし、一手の価値を縦軸にしたグラフを考えてみると、最初は10目のところからスタートし、中盤にかけて30目、40目と上昇し、やがて20目、10目、そして7、6、...3、2、1というように下降し、ついにはゼロ、つまりダメを詰める時点で終局となるわけです。」他方で「将棋のほうは、最初の一手の価値がゼロの状態からスタートします。そして、一手ずつ指し進むにしたがって、だんだん手の重みが増していきます。」(そして将棋は、王様が取られて終局するわけです。)★ここでいうアナロジー(比喩)は、容易に理解されるものではないでしょうか。野球というスポーツのゲームの性格は、上の比喩では囲碁の勝負の運び方と重なります。囲碁が占領する自分の地(何目と計算する)の大きさを試合の最後に比べて「白何目勝ち」だから「白軍の勝」とするように、野球は取った点数を試合の最後に比べて、「先行、何点勝ち」だから「先行軍の勝」とするわけです。それに対して将棋は、試合が始まったらいつでも、王様が取られたほうが負けというルールです。★野球は通例、表裏9回戦で成り立っていて、この9回戦った点数全部を比べて、どちらのチームが勝ったのかを決めるわけです。それなのにどうして、野球の観戦を、将棋の試合を見るかのように見る人が絶えないのでしようか。並外れたやつがいて、そいつが並はずれたことを(ホームランまたは長打)すると、これでゲームがほとんど決まるという豪快なものなんだ(将棋感覚)。こういう「豪快」さが野球の一魅力になっていることは否定できません。そういう特別の身体能力を誇る選手がフアンの喝采を浴びるのも当然かもしれません。しかし野球というゲームの本性自体は、選手個々の身体能力の特別さとは別に、個々の選手の力能にそう差がなくとも(いわば均質でも)、プレー中にその選手が置かれた場・状況によってやることの値打ちが異なってくるというゲームではありませんか。(碁石は均質です。しかし着手の価値が違う。)★日本ハムのようなチームは、この当たり前の理屈に、頑固にしがみついているチームなんじゃないんですか。(もちろん事は単純ではありません。それにしても大所はこの点にある。どうでしょう、栗山監督。)