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2018-07-12 13:15:00
囲碁・将棋は、野球とは全く異なるゲームである。しかし日本人にとっては野球同様、たいへん身近でポピュラーなゲームである。私は先ごろ、将棋の名手である米長邦雄氏の好著『碁敵が泣いて口惜しがる本』祥伝社、昭和61年、を読んでいて、ある個所ではったと膝を打った。たいへん地味な議論だが、これが栗山監督率いるわが北海道日本ハムファイターズの「優れた特性」を(すくなくともその重大な一側面を)いかんなく説明するものではないかと思われるからである。(日本ハム論がついに囲碁将棋論を援用するのか)★この「深遠」な議論。この本の142頁から152頁の間に書いてある。タイトルは「(碁に勝つには)自分の言い分だけを通そうとするな」。ここで米長さんの話は、「碁は調和のゲームだから、一方的に取るのではなく、相手に与えるものを与えながら自分も得る」という着手の連続となるだろうという。(常にギブアンドテイクの繰り返しなのだ。最期に自分の領分・地が多いほうの勝。まさに野球のようでしょ。)次に女性棋士の戦い方を批評し、彼女らが壮絶なケンカ碁を盛んにすると言い、こういう「感情のほとばしり」は見ていて実に楽しいが、「囲碁発展300年の伝統からすれば、囲碁発展の道に外れている」とする。(その分だけ、男の棋士より、弱い。女性の高段者は男性高段者に比較すれば素人。しかし、わかっちゃいるけど、血が騒ぐのかな。)米長さんの考えでは、「将棋は男性的なゲームだが、囲碁は女性的なゲームである。」(ゲームの本性上そうなので、この断言は覆らないねということでしょう。)その説明。「これは序盤・中盤・終盤と移行していく(囲碁の)過程での一手の価値を、将棋と碁で比較した観察に基づくもので、碁の場合、最初の一手は約十目の手とされています。これは、先手に十目の約半分に相当する五目半のコミを与えていることで明らかでしょう。そして、序盤戦から終盤戦にかけて一手の価値が大きくなります。(たとえば)相手の石をポン抜くのは三十目というようなことです。」「さらに、終盤戦になるにしたがって、一手の価値が十目とか十五目とかに下がっていき、ヨセになると二、三目になり、最後には半目を争ったりします。そして最後には、ダメまで詰め、ハマを計算して、ようやく何目の勝になる---これが碁です。」(野球と同じですね。結論がもう想像お出来になると思うが、念のためにもう一ファイル書きましょう。)一般論では豪快に戦うのが「男性的」ですが、米長さんは女性棋士の好戦性を皮肉ったのです。