インフォメーション
2025-10-20 08:15:00
現在のアメリカの政治思想として、「共通善」( Common Good)とでも総括できそうな有力な思想が浮上してきている、という指摘がある。これは大変に注目すべき議論で、これが現実である度合いにより、今後のアメリカの「地政学」を一変させることになろうと思う。これはいわば「アフタートッド構想」とでもいうものだろうな。つまりトッド理論がすっかり正しいとしたうえで、トッド氏が描く「地政学」のつぎに現れる、仰天の「地政学」を暗示している。いま「トッド氏」としてトッド地政学を描いている最中だが、それにかなり時間がかかる。その合間にこの「共通善」に時折あいさつしよう。/次の記事をごらんなさい。10/20 中央公論配信、「リベラリズムは終わり『共通善』が台頭した ヴァンス副大統領が象徴するアメリカ思想の変動」。詳しくは『中央公論』11月号を読め、といっている。
2025-10-19 18:18:00
日本ハム・フアイターズ、ソフトバンクに3連勝し、明日が決勝になる。3連戦の勢いで、明日も勝てるといいな。
2025-10-18 15:45:00
そもそも大塚久雄先生は、経済史家であって、経済学者とは思われていない。ご自身も自分が経済学者だとはしていないから、書く本の題名も「国民経済」であって、「国民経済学」とはしていない。しかし資本主義が国民的に確立していった英国を対象にして、英国に住む人間がその生活に根差して国民経済を国家的に構築した歴史的事情を論ずる対象である「国民経済」の姿は、まぎれもなく「国民経済学」の対象である。先生の英国国民経済の議論は、ともに「貿易国家」であったオランダとイギリスを比較しながらイギリスの国民経済の生成を論じられるのだが、「貿易」というものが国民の生活に根差して展開される場合(イギリス)と「貿易」のありようが国内には根本的な根がなく、国外の要因の組み合わせでしかない(大塚先生はこのような貿易を「トラフイーク」と呼んで、それが国民経済の真の資本主義的発展にはつながらないものとする)(オランダ)。大塚「国民経済」論では、イギリスの自立的国民経済の姿が強調され、とりわけ国民経済発展の基礎になる「資本」は「その根拠が国内にある・フアンド自前である」ことが「基本的特徴」として強調される。/なるほど、思い出した、たしかにこのとおりだった。「ただ、これは昭和の日本ではないかね」とあなた、率直に思うだろ。そのとおりだ。日本の世相では、昭和が終わる1990年代のはじめぐらいまでしか、「世相どおり」ではなかった。でもね、いまいう「昭和のなつかしさ」とか「昭和にはあった社会の夢」とかいうなら、これが「本体」だよ。1970年代まで、日本は「ものつくり」の勤勉国家を自負し、作ったものを外国が買ってくれさえすればそれ以上外国に何も期待しなかった。資本を輸出することは特に求めなかったし、特に強い軍備を整えて付近を睥睨したいとも思わなかった。外国の資本を受け入れるなど、ごめん被る。特に外国人に来てもらう必要はないし、たまに観光するか特別に留学するか以外は海外に特に行きたいとも思わなかった。「グーロバリズム」という声が遠くからきこえると、おぞけをふるった。そういう時代だったよ。/それがしってのとおり、1980年代を境に、ありていに言えば米国に強烈に迫られて、金融化、グローバル化ということが始まったのではないか。/この「金融化、グローパル化」は、大塚先生の概念では、「トラフイークという忌むべき特徴しかない貿易のごときもの」に当たるのだ。/大塚先生の本に書評がついているが、それらの書評の一つにいわく、大塚さんの西洋経済史は、立派で説得力のある業績だが、「西洋で金融覇権が成長していった」ことを捨象しているから、「現実的ではない」。よくぞ申された。まさにこの「西洋で発展したグローバルな金融覇権」(たとえば、ポンド本位制とかドル本位制だとかだよ)こそ、大塚経済史が「資本主義国民経済」の内容足りえないものとする「トラフイークなもの」だと、わたしは思うがね。/そういうわけで大塚「国民経済」論が、日本の国民経済を論ずるのに、現在も有効な知見だと思うのですよ。/これ、トッド氏の社会人類学と組み合わせると、「妙」です。
2025-10-18 15:14:00
国民国家の経済社会を取り扱う知見は、日本では近代に入って、「経国斉民の学」といわれるようになった。さて、今私たちが生きて、生活しているこの日本国で、どういう内容のものを「経国斉民の学」と考えたらいいものだろうか。勝手ながら、私が考え、行ってきたことをそのまま述べよう。私は、大塚久雄先生の「国民経済」論がそのようなものであると考え、人にもそのように話してきた。さて、今、大塚久雄先生の「国民経済」論は、書店ではどうなっているか見たら、驚いたことに「簡単に入手」できるのではないかと思っていた大塚久雄著が、確かに古書として扱う書店がたくさんネットにあるが、たいてい非常に高い価格で頒布されている。代表的著作は大塚久雄著作集だが(その第6巻が「国民経済」である)、たとえば「楽天」では、1冊3000円で出ている。「アマゾン」ではなんと同じ本が、(どういうわけか同じ本なのに)何種類もの価格がついていて、一番高いのが1冊6000円としてある。(復刻版出版のアンケートが某書店で募集されている。)図書館なら間違いなくたくさんあるから、初めて読む人ははじめから図書館に行かれたほうが良い。近年、昔よく読まれた社会科学・人文科学の本も、価格が暴落していて、たいがい100円か200円、多少読まれて500円、1000円はめったにない、という古書価格なのに、大塚久雄先生の本は日本国民によく読まれているといまさらながら納得した。
2025-10-16 18:07:00
浜田先生のように、「アダム・スミス以来200年の経済学の常識」とおつしゃるのなら、特にもう一つ、言わせてください。それは「株式会社」の取り扱いです。経済学上周知のとおり、アダム・スミスの想定する国民経済では、資本家というものは「個人資本家」としてしか想定されていません。アダム・スミスは、株式会社という法人形態を、「私人」が利用していいものとは考えていません。「私益に奉仕する株式会社は不真面目である」というのが、アダム・スミスの見解です。明瞭に社会の公益を内容とする事業しか、19世紀中葉までの当時の資本主義社会は、株式会社形態をとりうるものとはしていません。有名な株式会社は、「英国東インド会社」(国益に奉仕する)、中央銀行である「イングランド銀行」とか、あとは、運河会社、鉄道会社(公益ら資するものとして)とか、でしょう。こういうことを真正面から論じている人がいました。森 杲(あきら)『株式会社制度』北海道大学図書刊行会、1985年です。/株式会社のどういう点が「私益問題」としてとくに重要になるのかというと、株式会社が発行した株式が株式市場で売買されることを通じて、株式の配当は株式の現在の持ち主にとっては、結局社会の平均利子率程度にだんだんなってゆきます。その際に、株式会社が配当はすでに出しているが、その残余に相当の利益を残していたとすると(それを仮に企業利益と名付けますが)、この「企業利益」は経済学上どういう範疇になるのか、そして誰がこれを手中にすることになるのか、という問題が生じます。ステークホルダーは誰か、ですよ。もしスミスに同じ質問をすれば、「公益に帰せしめよ」というに違いない。実際にはみながよく知っているように、「企業経営者」がこれを当然のように抑えてしまいます。まあ特権的大企業だからこうなるので、実際にはあらかたの「株式会社」は日本では赤字でしょうけどね。法人重役がその会社の普通の従業員の100倍も、1000倍も、1万倍も(非常識な例示だとはだれも思わないでしょう。実際そういう実例がごろごろしているので)あるというのが、不思議だとは思いませんでしたか。貨幣金融的巨大な幻というとき、国民経済の上部にあるこのようなエリートたちの姿は、まさにこの幻の中の核心的姿です。資本主義がこういう法人資本主義の姿をあたりまえのように取り始めるのが、19世紀末以降ですね。だから浜田先生が言われるスミス以来200年というのは、こういう屈折の中においてしか考えられないのです。/森 杲氏の本は、なかなか図書館でもえられないかもしれない。奥村 宏氏の本ならかなりあるかもしれない。これもまあ、大変な法人企業の実像を伝えています。たとえば、奥村 宏『21世紀の企業像』岩波書店、1998年、奥村 宏『株とは何か』朝日文庫、1992年。