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2025-10-20 10:00:00
なんとも刺激的な文言を掲げたが、以下の記述を総括するとそういうことになるのではないか。これは前掲村岡著最終章「グローバリゼーション下の世界同時不況」の最終節(第3節)「マルクス『世界市場と恐慌』と現下の問題」のところである。「現下の問題」とは、この本がリーマン恐慌の直後にあらわされているので、リーマンで話が済んだのではなく、さらなる(一挙の)大破滅に世界市場が向かっているという趣旨である。この大恐慌の出現はすぐれて貨幣・金融恐慌という性質のものとしておこるほかないという運びだから、それ以前の生産資本レベルで行われている議論を割愛しよう。そうするとある種の形態論が勝った記述になるが、ご勘弁願いたい。以下に本書の最終の「節」のみ抜粋する。「変動相場制は現実資本の蓄積以上に貨幣資本の蓄積に大きな影響を及ぼした」。(1)古典的な金利裁定取引は終焉して、金融派生商品を駆使したクロス・ボーダー取引が増大した。これは国民的利子率の相違という既存の秩序を破壊し、各国の金融政策を無力化してたびかさなる「通貨危機」を招く。(2)貨幣資本の蓄積形態が変化し、「基軸通貨国」アメリカの金融市場の肥大化を招く。アメリカ自体の資本蓄積は、在来型の産業の国際競争力と収益力が悪化したので、「先進産業」に資本投下して世界中に進出し(多国籍企業形態)、これで生じたアメリカの貿易赤字は、そのドルをため込んだ国々でのドル建て有価証券の購入という形での対米投資、すなわちドルのアメリカへの還流をもたらした。こうしてアメリカの貨幣的蓄積のシェアは現実資本の蓄積をはるかに超えた「アメリカの金融的肥大化」構造をもたらした。この「資金」をアメリカの投資銀行がもちいたさまざまのありようが「マネー資本主義」と評される仕方である。(仮にマルクスに批評させれば、これは「架空資本」の現代的な、堕落した姿だろうと。)(3)この貨幣・金融恐慌の現れ方は、「連続発射」ではなくて、「一斉収縮」となるしかないようだ、と。現代世界市場の集中的特性は、現実資本の蓄積の面では先進国資本の多国籍企業化による国内の空洞化と新興国の発展が進む一方で、貨幣資本の蓄積の面ではアメリカへの一極集中が進むという、極度のアンバランスの進行であると。アメリカではマネーが「架空の需要」を作り出すことで世界的資本過剰を隠蔽してきたのであるが、これが一挙に爆発するときがくると。/なにやら2025年のトランプを彷彿させる話だが、これは今から10数年前に書かれた文章を模しているので、「符号」は「偶然」かもしれないよ。アメリカの下層労働者階級がアメリカの繁栄の中で「窮乏」を訴えているような問題が、単純に外国人が国土に入ってきたからということではなくて、じつにこの世界的貨幣金融体制の生成に伴って作りだされたことだと主張している節は、読んでほしい。しかしこの現今資本主義世界市場のありさまは、「国際的トラフイーク」として、ちょっと脇に置こう。国内の労働者の下層の生活不安は、さしあたり国民経済的課題として取り上げたいというのである。
2025-10-20 09:37:00
大塚さんの「国民経済」論をいまの日本の国民経済を考える参考にしようとしているのはわかるが、現在の複雑高度な資本主義世界経済を見ないでそういう説明をするのは、経済学の議論としてはじつに乱暴だろうと思われるかもしれない。「釈明」として一文書く。村岡俊三先生に『グローバリゼーションをマルクスの目で読み解く』新日本出版社、2010年というご著書がある。これはマルクスの経済学批判体系「プラン」をすっかり踏まえて、「プラン」前半体系、すなわち国民経済学の部分、の基本的理論の組み立てを明らかにし、それを踏まえて、「プラン」の後半体系、すなわち資本主義世界市場論の理論的組み立てを明らかにするという構想のご本で、しかもこの議論の焦点を現代、21世紀に絞り、21世紀世界市場危機の構図を示そうとしておられる。まともに書いたら大記述になってしまうから、「1970年代に世界市場に変動相場制が取り入れられる」という「画期」以降に絞って、このご著書の最後の部分で展開されているご説明を略述しよう。(ご不満なら、ご著書全部を玩味されよ。)文を改める。
2025-10-20 08:15:00
現在のアメリカの政治思想として、「共通善」( Common Good)とでも総括できそうな有力な思想が浮上してきている、という指摘がある。これは大変に注目すべき議論で、これが現実である度合いにより、今後のアメリカの「地政学」を一変させることになろうと思う。これはいわば「アフタートッド構想」とでもいうものだろうな。つまりトッド理論がすっかり正しいとしたうえで、トッド氏が描く「地政学」のつぎに現れる、仰天の「地政学」を暗示している。いま「トッド氏」としてトッド地政学を描いている最中だが、それにかなり時間がかかる。その合間にこの「共通善」に時折あいさつしよう。/次の記事をごらんなさい。10/20 中央公論配信、「リベラリズムは終わり『共通善』が台頭した ヴァンス副大統領が象徴するアメリカ思想の変動」。詳しくは『中央公論』11月号を読め、といっている。
2025-10-19 18:18:00
日本ハム・フアイターズ、ソフトバンクに3連勝し、明日が決勝になる。3連戦の勢いで、明日も勝てるといいな。
2025-10-18 15:45:00
そもそも大塚久雄先生は、経済史家であって、経済学者とは思われていない。ご自身も自分が経済学者だとはしていないから、書く本の題名も「国民経済」であって、「国民経済学」とはしていない。しかし資本主義が国民的に確立していった英国を対象にして、英国に住む人間がその生活に根差して国民経済を国家的に構築した歴史的事情を論ずる対象である「国民経済」の姿は、まぎれもなく「国民経済学」の対象である。先生の英国国民経済の議論は、ともに「貿易国家」であったオランダとイギリスを比較しながらイギリスの国民経済の生成を論じられるのだが、「貿易」というものが国民の生活に根差して展開される場合(イギリス)と「貿易」のありようが国内には根本的な根がなく、国外の要因の組み合わせでしかない(大塚先生はこのような貿易を「トラフイーク」と呼んで、それが国民経済の真の資本主義的発展にはつながらないものとする)(オランダ)。大塚「国民経済」論では、イギリスの自立的国民経済の姿が強調され、とりわけ国民経済発展の基礎になる「資本」は「その根拠が国内にある・フアンド自前である」ことが「基本的特徴」として強調される。/なるほど、思い出した、たしかにこのとおりだった。「ただ、これは昭和の日本ではないかね」とあなた、率直に思うだろ。そのとおりだ。日本の世相では、昭和が終わる1990年代のはじめぐらいまでしか、「世相どおり」ではなかった。でもね、いまいう「昭和のなつかしさ」とか「昭和にはあった社会の夢」とかいうなら、これが「本体」だよ。1970年代まで、日本は「ものつくり」の勤勉国家を自負し、作ったものを外国が買ってくれさえすればそれ以上外国に何も期待しなかった。資本を輸出することは特に求めなかったし、特に強い軍備を整えて付近を睥睨したいとも思わなかった。外国の資本を受け入れるなど、ごめん被る。特に外国人に来てもらう必要はないし、たまに観光するか特別に留学するか以外は海外に特に行きたいとも思わなかった。「グーロバリズム」という声が遠くからきこえると、おぞけをふるった。そういう時代だったよ。/それがしってのとおり、1980年代を境に、ありていに言えば米国に強烈に迫られて、金融化、グローバル化ということが始まったのではないか。/この「金融化、グローパル化」は、大塚先生の概念では、「トラフイークという忌むべき特徴しかない貿易のごときもの」に当たるのだ。/大塚先生の本に書評がついているが、それらの書評の一つにいわく、大塚さんの西洋経済史は、立派で説得力のある業績だが、「西洋で金融覇権が成長していった」ことを捨象しているから、「現実的ではない」。よくぞ申された。まさにこの「西洋で発展したグローバルな金融覇権」(たとえば、ポンド本位制とかドル本位制だとかだよ)こそ、大塚経済史が「資本主義国民経済」の内容足りえないものとする「トラフイークなもの」だと、わたしは思うがね。/そういうわけで大塚「国民経済」論が、日本の国民経済を論ずるのに、現在も有効な知見だと思うのですよ。/これ、トッド氏の社会人類学と組み合わせると、「妙」です。
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