インフォメーション

2025-10-14 06:46:00
大なり小なり、物事が劇的に変わるときには、まず「思考枠の逆転」が起こっている場合が多い。今度日本でもらったノーベル賞だって、ニュースで知らされていることでは、「生理・医学」の場合、「免疫」という普通なら生理を助ける要因を、それがただ今の生理の妨げになっていたので、「免疫を制御する」という思考に立ったし、「化学」の場合、普通なら物体の実体を扱うのに、その物体にたまたま生じた特別の空間(空隙)のありように思考を集中したんだと。「逆手」から出発したところに、研究初期の「不評判」があったという。トッド理論も、最初は「とんだ保守反動思想」に聞こえるような「恐るべきおもいつき」からスタートしたと、トッド氏自身がいう。1970年代ソ連のブレジネフ時代に、ロシアの「家族の型」に根差す「人類社会的事情」にトッド氏はある種の「傾向」を認め、その傾向からソ連共産主義体制がまさに崩壊に瀕していることを読み解いた。この「予言」が「当たった」ことが、その後実に半世紀もの間トッド氏がこういう種類の政治的予言の試行錯誤を幾たびも繰り返して今日にいたるまでにトッド理論を巨大に育て上げたのである。年季が入っている。その「予言」が最終的に今やトランプ体制に焦点を絞っている。(そして私見では、どうやらトランプ氏はトッド理論に気が付いて、いくつかの事細かなトッド・シフトをとっているようだ。)このことが今のトランプ氏が「不思議な行動」をとるケースのいくつかを明瞭に説明するだろう。
2025-10-14 05:32:00
新しい思想に出会った者が最初に浴びせる「思想感」は、「これは保守反動思想ではないか」、「これは悪名高い人種論の一種ではないか」とするものだろうと、トッド氏自身がよく承知している。「人類の思想たるべきものは、何ものにもとらわれない個人主義に立つべきものだ」と自然に考える人は、「家族の型」という社会的・歴史的前提で考えるという思考は、「とんでもない保守反動」とトッド氏の思考を断じることになるやもしれぬ。もっともトッド氏は「トッド氏の思考が誰にとっても絶対の条件になるべきものだ」とは明らかに考えていない。「抽象的思考の世界」ではかのルネ・デカルトを生んだフランス思想界から出た人だ。抽象的思考に親しんで出発している人である。「こういう思考もありうる」と提示しているのだ。しかも思考の焦点は「政治」という狭いテーマに収斂している。/人種論というのは、ある人種に属する人間が人生で宿命的にある決まった行動様式をとると決めてしまうという考え方だか、ある国民が歴史的に属する「家族の型」がその国民の政治的行動に宿命的にある行動様式をとらせるというトッド氏の思想は、「ある意味で人種論のようなものだろう」とされても、否定はできない。確かにトッド氏の議論では、「国民的な家族の型」の影響から遠ざかる、あるいは縁がなくなってゆく条件がありうることも論じられてはいるが、この条件たるやとてもにわかには間に合いそうもない条件だ。要するにトッド氏は、おそるべき国民国家的政治論を示しながら、だからと言って人類普遍の抽象理論を全否定しているのではない。ありていに言えば、「こういうことも考えてみたら」としているのだ。
2025-10-13 18:25:00
10/14付け 朝日新聞では、解放人数20人としている。ガザの平和と復興が早急に実現するものと期待するのみ。
2025-10-13 15:27:00
じつは私は、年来、アングロ・サクソン流の民主主義に、正直のところひとつ大きな違和感をもっていた。それは普遍的に民主主義を語る際に「個人主義」を絶対の前提として語る仕方である。私個人は、この社会に生きるについて、自分が属している何らかの社会集団、家族もあろう、地域社会もあろう、職場もあろう、学校もあろう等々、をまったく除外して自分個人を考え、語ることはとうていできないと思っている。それがなぜアングロ・サクソンは、まったく当然のように「個人主義」を人類普遍の原理として考え、行動し、語ろうとするのだろうか。/最近ある政党の総裁が、自分が総裁になった以上、働いて働いて働くと口走り、話題になったが、私個人はこういう考えは十分理解できる。さっそく想起するのは次の歌詞であった。「海の男の艦隊勤務、月月火水木金金」。旧日本帝国海軍の「勤労意欲」をよく表している。「蛍の光、窓の雪」とは、たゆまず学ぶことを教えている。「青年老いやすく学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」もそうだ。「二宮金次郎の銅像」はたえず働くことを人の務めとして示している。日本の社会に絶えず流れていた勤労の教えは、簡単に日本人の想念から消えはせぬ。昔英国のコーンウォールで英会話を学んでいたころ、機会があってサザンプトン港に滞在した。そこのパブリックライブラリーで図書を閲覧していて、20世紀冒頭この土地に日本人海軍士官の一団が生活していたが、「その人々が休みのない生活をしている」とあきれて書いてあった文章に出会った。(ナニ私もその人々の子孫なのだろう、休日になってもさっぱり遊ばないと、冷やかされていたので)これは日露戦争の開戦に先駆けて、英国に発注した軍艦を日本に回航する任務を負った士官たちだとすぐに気が付いた。
2025-10-13 09:10:00
人類史を「家族構造」の流れで見ると、人類史は、今から9千年前のメソポタミア流域で開始された「核家族」形態から、その5千年後の「直系家族」形態、そして有史時代以降のより複雑な「共同体家族」形態の展開、という具合に経過してきた、とする。「メソポタミアでの人類文化の開始」というのは、人類の農耕と定住の始まりで、人類の生活が多少なりとも次世代に残す知的・物的資産が社会に存在するようになるのが、「直系家族」形態への移行と重なるのであると。「メソポタミア」以前は、人類は長く遊牧流浪の生活をしていたわけで、「核家族」形態は遊牧中に発生し、農業時代に入っても数千年は続いたろうと。ちなみに現世人類の発生は、私は昔、5万年前と習ったが、今はどう見られているか。人類の種はアフリカで発生し、それが地球上に広がっていったと。トッド氏による世界史的な家族形態史は、上述のように、「核家族」ー「直系家族」ー複雑な「共同体家族形態」とたどられているが、これが「メソポタミア」や「黄河流域」やのような太古の文明中心地から出発して世界中に、移動する長い歴史を経ながら移動していったのである。だから「核家族」や「直系家族」のような「太古の家族形態」も「四大文明からみればはるかな周辺部」で、現に存続しているというのだ。トッド氏は英国の家族形態を「核家族」、ドイツと日本の家族形態を「直系家族」としている。ロシア、中国、インドはこの二者とは明瞭に対比できる「ある種の共同体家族」なのだという。トッド氏の示している社会人類学は、人類の共同体史を、私などが以前はそう思っていた「発展」を、恐るべきことにすっかり逆に示しているのである。核家族、直系家族という家族形態は、人類史では、もっとも太古に近い、言ってみればより原始的な形態だとしているのだ。*そうすると、歴史が切り開いた「近代欧州」というのは、私などがこれまでそうと信じて疑わなかったように、人類普遍の新しいありようを開いたものということを、疑ってみざるを得ないのである。*そういうわけで、この本の序文にあった佐藤 優氏の言、このトッド氏に似た議論として日本の柄谷行人氏の共同体論を挙げているが、似ているのはほんのうわべだけで、内容はまったく正反対だ。柄谷氏は折りさえあれば「遊牧民の自由」を回顧し、この遊牧民的自由さで共同体を再建するような想念を話すが、トッド氏の議論では「核家族」形態がこの遊牧民的自由さを属性として含むものとしている。太古的自由さ、ね。
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