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1/18 ロイター配信 「欧州8か国に10%追加関税、トランプ氏表明 グリーンランド巡り圧力」。/トランプ氏は、デンマーク領グリーンランドが、北極海の入口にあって「欧米民主主義陣営」が「中ソと対決するうえで戦略的に領有必要」なのと、豊富な鉱物資源を有していることからも、「西半球の覇権を特に新しい戦略的柱」とした米国が、「買収なり、占領なり」したいとするあからさまな策動をしている。1/17には、トランプ氏に協力しようとしないで「15日にはグリーンランドへの少数派兵を発表した」欧州諸国に怒り、「2月1日から欧州8か国、内訳は北欧4か国と小欧州4か国(英仏独蘭)」に対して、追加関税10%を課すと発表した。欧州の非協力的態度が変わらなければ6月1日から追加関税を25%にするという。//こんなばかな話があるものか。聞いたとたんに唖然とした。
ところで私はこのニュースを、今朝の朝日新聞1面トップの記事で初めて知った。私がみているヤフーネットには、目の届く限りこういう記事はなかったのである。/そこでヤフーネットに、「トランプ グリーンランド 関税」と検索したら、上記の記事が出てきた。また、それに関連する記事もゾロっと出てきた。//今のWEB環境はなにやら人為的で、日本の今の人為的情報環境の下では、世界的トップニュースも、ネットではまつたく現れないということが起こりうると知った。この記事は朝日にも道新にも1/19の今朝トップに出ていたから、「今のネット環境は、ネットには全然出ない記事が、新聞では世界的ニュースとして1面トップででる」こともあると、覚悟していいようだ。これまたべらぼうな話だ。
上記の記事を投稿(8時35分)して、ネット上での閲覧に戻ったら、1/19 8時 ロイター配信記事 「Eu主要国、グリーンランド巡る米関税を非難」という記事が、トップのほうに現れた。この記事をみていれば、関連記事がそこに続いているから、情報が詳しくわかる。//それにしても、ネット環境というやつは、油断がならぬ。特に今は総選挙を控えているから、そのニュースが現政権に有利か不利かという政治計算が、ネット環境を特別に強く支配しているのではなかろうか。トランプ氏の仕業やその日々の運命やのニュースは、トランプ氏と運命を共にしているような勢力には、とりわけ強烈に影響する(と慮るのだろうさ)。
//1/22 産経新聞 デジタル 配信 「グリーンランド巡りトランプ氏『恩知らず』と不満爆発 関税取り下げも領有の必要性強調」/この記事で、トランプ氏が2月1日からといわれていた欧州8か国への追加関税を、取り下げたことがわかった。
1/14 朝日新聞 デジタル 配信 「立憲と公明が新党結成へ、15日に党首会談 公明は小選挙区撤退方針」 / 立憲と公明の2野党は、「中道」政治を目指す「新党」結成の覚悟をし、1月15日に党首会談をするという。日本の普段は鈍重な「政界の動き」に何十年かぶりの激風である。/公明は、率直なところ、にわかな総選挙の情勢に急な準備が間に合わず、小選挙区は今回ださないという/ 高市自民党の成立以来の「硬派」方向そのものが、このような「野党結集」方向を期せずして生み出してしまっているのは、明瞭である。もともと立憲も公明も、「党利党略」で動けるほど「変わり身」の早い政党ではない。それがにわかに新党結成に動くとは、高市氏の年末年始の「強烈な」「硬派ぶり」が期せずして生み出してしまったもので、昨日まで自民の「盟友」であったはずの公明党が「殿ご乱心」と引き留めたのにこれをあつというまに袖にして維新に秋波を送った自民の「硬派ぶり」がある意味でおのずと生み出した力学であろう。場合によればこの総選挙で消滅に近い有様に追いやられそうな公明が、これまた正直のところ「従来になく」存在感が薄れていた立憲に、「政界逆転、総野党結集」の願ってもない機縁をあたえることになった。/ここで「中道」とは、なんのことはない、高市自民党の「急進撃」を止めるという一点に強く賭けた「中道」であって、一言でいえば「ストップ高市」だ。高市の「日本フアースト」という勢いに待ったを掛けた。/だから私は、高市自民党をいまの政局で「正」(アクチブ)、公明・立憲の「新党」を「反」(パシブ)と表現した。/さあ、国民投票にかけたいような話を、「衆議院解散」の「大義」として、高市氏はぶち上げるがよい。ひょつとしてラストチャンスかもしれないよ。勝てば「日本のトランプ」になれる。負ければ「九天(急転)奈落の底」。/大新聞も今回「正」「反」に分かれた。高市解散をスクープしたのが読売。総野党結集の砦となる新党結成をスクープしたのが朝日。/私は「中立」だよ。//今朝(1/15)の新聞が配達されたので見たら、北海道新聞は1面トップ、朝日新聞は1頁の左脇、に立憲・公明が新党を結成する記事が載った。道新の記事では、この「新党」はさしあたり、今回の衆議院選に立候補する候補をメンバーとして成立するのだそうで、立憲、公明、それぞれの党は党として存続するという。してみると、「新党」の「党員」は「さしあたり」「党籍二重なのだ」。もっとも全く新しい政治家が出てくることもあるだろう。/30年だか、40年だか昔に、日本新党・別名細川新党というものが急にできた。あの時は新たに候補者が募られた。(今回はとてもまにあわぬから、どうしても出来合いの政治家にしか出番がない。)細川新党の時に、名乗りを挙げた新人に、アラビアの大学教育を受けたという異色の女性がいたが、その後幾星霜、その人が今の東京都・小池知事である。今回は立憲が「30人ほど立候補者が不足していた」といっているが、この新党の候補者として広く人材を求めていいわけだ。「中道」という「党是」だから、政策は容易に立つ。ただ、今回は、もう外人嫌い・移民大嫌いというムードでは済むまいよ。堂々の移民政策をお考えになることだな。どうせ高市氏側が「移民嫌いムード」をまとうだろうからね。
地理学や地球論やというのが、そのまま地球破壊を止める学問分野ではないのです。唯物史観とか階級闘争史観が地球環境破壊を止める思想分野というわけではないのです。斎藤幸平さんの本が有名になったからといって、『資本論』が環境破壊をとめる議論をしているということではなくて、それを書いたマルクスという人が晩年になってから「資本の活動が地球環境を破壊している」ということに強い関心を抱いた、ということを斎藤さんが述べているということで、『資本論』がそういうことをもっぱら述べているというわけではないのです。/日本に環境庁があるから、日本政府が常に環境破壊を止める政治をしていると思ったら、それはおかしいでしょう。確かに社会的に環境保護運動が高まっていることが、環境庁という政府機関を設ける動機になったでしょうが、それは現環境省が常に全力挙げて環境保護の活動をしていることを即約束していることとは残念ながらつながっていませんよ。(はやい話、もし名前がそういう名前のものだけ設けさえすれば、役所でも学問分野でもですが、それだけでことがなるとお思いか。環境省は日本政府の環境行政を一本化して担当する政府機関だ、というにとどまりましょう。)結局、人間が自分本位の活動で環境を破壊するのを止めるためには、常にそのような自覚的活動を必要とするのです。どうも私の議論の仕方が拙劣で、これを言うのに随分お時間をとらせました。
地球史だから地理学だろう、と話を振っても、そう簡単に出口があるわけではない。そもそも地理学というのが、決して取りつきやすい部門ではない。/たとえるならば、国語と文法の関係が、歴史と地理の関係に似ている。文法という部門はいわば国語という部門のルールを扱っていて必須の部門だが、全然面白みがない。歴史は地理の姿がどどっと流れてゆく様相を示すから、流れはわかるが静止したときのデテールはない。地理は静止の姿で示されるから一見して何かわかった気になるが、しかし流れが伴わなければ死んだ知識だ。/これは静止の姿が念頭にない者が流れだけ説明されても、具体像がいつもどこにもなければ空虚な思いをするしかないのと同じだ。地理の姿をしつかり念頭に置きながら流れを観察せよと言われる。(米国の歴史の教科書が、冒頭非常な頁数を使って米国地理を詳しく説明してあるのを見たことがある。日本にはこういう歴史の教科書はまずない。)地理は見るものがそのいくつかの部分について、その最近の過去は?それはこれからどうなるのだろうか?という思いを以って見ていると、そこにある地図が生き生きと動き出す。/私のいいたいことは、歴史と地理という二つの視角をうまくない混ぜてものを見ることが、歴史認識にも地理認識にも必要だということだ。//地理学というのは、気候、水系地理、地形などの「自然地理」が、「植物地理」、「動物地理」という「生物地理」に、そして「自然地理」と「生物地理」が、つまりつづめて言うと「自然」が、己も動物の一種たる「我々人類」にどう関係・影響するのかを主題として取り扱う、のであろう。それにしても19世紀末以来、生物における進化、人類における進化という動きが重要な観察点になつてきた、という具合に読める説明が、ヴィダル・ド・ラ・プラーシュ『人文地理学原理』岩波文庫、1940年初版、の上巻18頁あたりに書いてある。要するにこの「人文地理学」は、自然の、人類の生活に対する影響を、生物の進化という時間的要因をみながら、論じているわけである。(今日の地理学であれば、地質の歴史にもある種の進化概念を伴うかもしれぬが) はっきり言って、このような人文地理学の姿であれば、自然地理は人類の生活のたんに与件であって、人の活動が自然の成り立ちを撹乱するという視点は乏しいであろう。(もっとも、それがまるでないとは言わない。たとえば、「地味を痩せさせる」ような人間の活動は、さすがに気が付く。三圃制というのは、人間によるその対抗策でもある。)ただ一般には、ただ地理学と言えば、人間活動に対して受け身の存在だろう。/そういうわけで、急に処方箋はない。//この『人文地理学原理』に解題を書かれた飯塚浩二先生は、このような「人文地理学」に「歴史学の筋を通すべく」、まあ早く言えば唯物史観を(人類の生産の場における生産関係の歴史だね)入れるよう示唆されている。(1939年12月ですからね。ずいぶん昔の、昭和14年です。)しかし唯物史観を導入しても、人類がもっぱら主体的で、自然の方が単に与件、という構図は変わりませんよ。
一方で地球を話題にしながら、他方で太古以来の諸宗教や諸哲学の参入を度外視することは難しかろう。(この方面の議論のほうが大変だろうと、同情されるやもしれぬ。この方面にけじめをつけなければならないのが、宿命である。)そもそも地質学からして、17世紀段階ではキリスト教の旧約聖書に出てくる神話である「ノアの洪水」を、まるで地質学上の疑うべからざる史実として、「洪積世」を考えているわけだ。この「洪」は「ノアの洪水」の「洪」なのだ。やっと20世紀の半ば過ぎに、「洪積世」は改称した。まあ氷河が溶けて地球に大洪水を起こしたのは事実だろうけど。橄欖の葉を咥えた鳥がノアのところに飛んできたのは、サイエンス・フィクションとして十分に想像できよう。/地理学は神話と現実の橋渡しを画期的にうまく果たしてきたようだ。「地球のお話」は人間には「大地の意義」であって、宗教・哲学はこぞって宗旨に盛るしかない。地球が自然科学的存在として認識されてゆくためには、太古にはそれは「お空の話」として「客体化」されるしかなかった。それが太古の「天文学」であろう。地理学史の本をたどってゆけば、古代から中世、近代にかけて、人類の先覚者たちは、「お空の法則」を地上の物理学の基本的認識に読み替えていったのだとわかる。(かれらは今の我々と同じ悩みをしのぎながら世をわたった。宗教と哲学は剛力を誇っていたから、うまくしのがないとぶち殺される危険があった)そしてやっとのこと、ニュートンの物理学が成立した(いま古典物理学なぞと批評するが、この生みの苦しみを思いやるがよい)。そういうわけで、地理学史は、まさにこの宗教と形而上学との対応を全身に浴びた太古以来の科学発達史である。さしあたりこの地理学の経過に学べばいいと思うよ。小中学、大学生にも、そう説得していいとおもうが。どうだろう。『み空の花を星と言い、我が世の星を花と言う(逆だったかな)」の境地だよ。今の世も、銀河を観察してその時空を察し、顧みて地球の限りある人生を思っている。