インフォメーション

2026-09-17 05:41:00

9/16 22:38 テレ朝日系配信 「台風25号が発生 発達しながら北上 シルバーウイークに本州接近の可能性」コメ262通。

9/17 0:20 千葉日報配信 「関東・東北・中部で地震M4.8 東京・神奈川・埼玉・千葉・静岡などで揺れ 震源は茨木県」コメ81通。

「自分らしく生きる社会」司馬論(2) この本『アメリカ素描』の内容に詳しく立ち入るわけではなく、結局この司馬さんの「文化からみた文明」論という、過去の歴史的行き掛かりにはほとんどこだわらず、もっぱら現実を、目に見える通りに捉えるというわかりやすい議論である。ここに書かれる司馬さんの観察が、たしかに現実に世界中の多くの人々が求めていた「より豊かに生きやすい社会」(つまりは現実のアメリカ合衆国のことだが)の構造的スケッチであることは間違いない。

この『アメリカ素描』の構想とあらましをまず書いておこう。

この本は、司馬遼太郎という作家のアメリカ論です。

司馬氏は整った主題を立て、多勢の案内人を現地に前以って手配し、本書にみられるような40日間ほどのアメリカ見聞を行い、その見聞のおおよその経過とこの見聞に基づく氏自身のアメリカ論を本書にまとめた。本書の内容は1985年の間に読売新聞に第1部および第2部と分けて連載された。

現代日本を知るために、氏は、欧米と言う白地図を「参照用」に持たねばならない。その白地図とは「手作りの、しかも観念的なもの」(14頁)である。(それは実在の地図とは違う。)アメリカの白地図は、アメリカ映画や小説などですでにできているが、実際に渡米して40日間ほどの実地見聞を行うことを通じて、氏は自身のアメリカ観を一層確かにしようと志した。

アメリカという国は、文化がなくて、文明だけがある「人工国家」のようだが、世界中の文化諸国家に住む人々が、そのほうが生活しやすいのならそこへ行って自分も住んでみようという気を起こさせる、「救いのような存在」であるのかもしれない。

以上は本書冒頭「私にとっての"白地図"」の要約みたいなものだ。本書が書かれたのは今から40年ほども以前のことだと、ご承知ください。私も当時(1980年代)アメリカに1年余滞在した。しかしいちいち司馬さんを検証することなどしませんよ。司馬さんの「アメリカと言う白地図」を読ませてもらいます。

9/17 7:02 MBC南日本放送配信。「桜島で噴火 噴煙1200m 灰は鹿児島市街方面へ」。/レベル3の入山規制中。

 

 

 

 

 

2026-09-16 21:07:00

9/16 17:13 共同通信 配信 「十勝岳 本格的噴火可能性 高まる 火山調査委が声明」。/ コメント58通ついている。過去には1926年、1962年、1988年に著しい噴火があった。また今年の7月と8月にも小規模の噴火をしている。現在レベル3の入山規制中。/ いま恐れているのは、万が一北海道の冬季にかかって著しい噴火が起こると、被害がとくにきつくなると考えるからである。近くに富良野という評判のいい観光地もあることだし。/ 噴火周期のようなものを念頭に置くと、危険視するのももっともである。用心に越したことはない。いま日本列島が予想外の長期に亘る大雨被害にあっているのをみるにつけても、北海道人も転ばぬ先の杖の心で生活しよう。伊達に副都候補になったわけではあるまい。日本列島国土保全を列島一倍念頭に置いている心が、副都志願者というものの今後のありようだと思うよ。

「自分が自分らしく生きる社会のありよう」という連続書き込みをしていて、村上さんと五木さんの作品を、考える材料とした。もうひとり、司馬遼太郎さんを付け加えよう。作品は司馬遼太郎『アメリカ素描』新潮文庫、平成元年だが、私は平成3年の第7刷を買った。このアメリカ論は、1985年の読売新聞に連載された文章(第一部と第2部)を採録したのである。なにしろ作家の企画なので、恐ろしく主観的である。それは村上さんや五木さんも同じだ。そこを承知の上で、その知恵に学びたい。//

司馬さんはこう考えるのだ。地球上のいろいろな民族の人間が自分に馴染んだ生き方をしながら(それを司馬さんはその人の生きている文化と呼ぶ)、生活の困窮に追われて、自分(達)を受け入れてくれる「誰でも生活がしやすい国」(これを司馬さんは文明と呼ぶ)がないものだろうか。あればそこへぜひ移住したいと志願する。いま地球上でこういう「文明国」と目されているのが、唯一、アメリカ合衆国ではあるまいかと、司馬さんは思う。司馬さんが知り合ったある韓国人のそういうつぶやきを、司馬さんはすかさず自分の言葉に置き換えた、次第。(19頁)そういうわけで、「文化」から「文明」を観察するという、このアメリカ論が書かれることになる。//

そもそも「アメリカ論」は、司馬さんは、アメリカ映画とかレコードからとか、そういう形を通じてある程度の先入観はすでに出来上がっていた。それを今回は、現地に40日ほど旅行し、適当な案内人を指定してその人にも助けてもらいながら、じっくり見聞しようということであった。(続く)

2026-09-15 18:11:00

9/13 村上「アンダーグラウンド」に引き続いて、それとの比較のために、五木寛之『風の王国』新潮社、1985年、について書きましょう。/この小説は、速水卓という主人公が、フタカミ講という理想の集団を見出して、その一員として生きようということになる、という話である。/主人公はトラベル・ライターで、雑誌社の仕事をしている。この人物の特徴は、ウオーキング(歩行)のマニアで、海外をかなり歩き回った。またかなりのカーキチで、むろんドライブは好きである。いってみればそう不思議ではない人物である。友人は「兄」とその愛人である歌手、それと喫茶店のマスター。/この話は速水がフタカミ講という「理想の集団」を見つけてそれにすっかり帰依するというに尽きるが、してみると、先に示した村上氏の構図と比較してみると、話はもっぱらフタカミ講という集団がいかに「世の中」と対立し、自分のアイデンテテイのために戦っているかという話になるわけで、この話には西欧的な「独立の個人」というものはまったく存在しない。個人はそれが現に属している集団に規定されているわけで、「かれの属する集団」のみが話題足りうるのである。だから、「世の中という集団」とそれに対抗する理想の集団(この話ではフタカミ講)の対抗だけが、問題足りうることになる。/

実はこの話は、急に始まるのではない。日本の太古の歴史以来の社会的構図がすでに存在しているわけである。それは日本史の太古、縄文人が長い歴史を送った後、大陸から弥生人が古日本島にやってきたが、その弥生人がもたらした稲作文化による「里の民」、それに対抗する従来の縄文人の「山の民」という対抗として数世紀送った後、「山の民」は相変わらず精神的支柱ではあるが、「山から里へ」(その反対にふたたび里から山へ)という「世間渡り=世渡り」という流れが人々の間に生じ、「政治権力を独占して君臨する里の民」(戸籍強制、課税強制、徴兵強制が里の民の三大権力基盤である)に対抗する「山の民」、そして、「山から里へ・反対に里から山へ、世渡りする大量の人々」という「日本史を縦断する歴史上の社会的流れを生じた」。つまり、単純には弥生時代とそれに続く古代が成立したのではなかつた、と。五木氏の、精神性の濃い「山の民」と権力者である「里の民」という対抗が、村上氏のいう権力構図に相当する。/そしてこういう歴史的構造を背景として、明治初期にフタカミ講という社会集団が生み出されたとして五木氏のこのストーリー・風の王国は、組み立てられる。つまりここからフイクションである。フタカミ講は、「山の民」を精神上の支柱としつつ、「山から里へ・里から山へ」「世渡りする集団」であるところの「自由な民の特徴」を断然維持する特別の結社なのである。(さもなきゃすっかり里の民に押しつぶされた生活になっているはずだ。すべての日本国民と同様に。) 日本歴史の方は、五木氏のこの本の巻末に詳しい参考文献表が出ており、五木氏としては史実のつもりである。ある集団に属するという性質でしか、独立の諸個人は問題になっていないことを再度指摘しておく。日本人一般にはこのほうがはるかにわかりやすい話なのだ。(そもそも欧米でも、独立の諸個人というものは、思想上しか存在しないのではないか。ここは難しい理屈のあるところだ。そうしたら、その思想的根拠を徹底して洗う必要があろう。手放しで言える話ではあるまい。)いま私は、村上氏と五木氏の対比だけにとどめておく。

2026-09-15 08:43:00

9/15 7:57 植松愛実 気象予報士 配信。「太平洋側でもバケツをひっくり返したような雨に...まもなく台風発生!連休に影響の見通し」 /9/15から9/21の列島各地の天気を予報した表が添えられている。この表を一瞥すると日本列島全体がパッとしない天候なのが見て取れる。//

じつはこの配信には、10日も前に配信されていた記事もついているが、この9/6配信記事は、9/7から始まる1週間が日本列島にとって前例のない大雨禍に出会っていた週であった。その週に日本列島南側の太平洋が前例の少ないどんな妙な気象状況であったかを、いまわれわれにわからせてくれる。私、この配信記事、うまくまとめることができない。関心のある人は自分でみてください。これが過去の日々に「秋雨前線が日本列島の真上を上下左右に揺れながら去らなかった原因だ」ね。9/6 12:15 植松愛実 配信 「モンスーンジャイア生まれの迷走台風が引き起こす大雨はなぜ『不気味』なのか」。

なお、札幌は長らく連日晴れないしは曇り、を続けているが、その間に別に渇水だったわけではない。「連日晴れまたは曇り」というと、連日平常日だったように聞こえるが、決してそうではない。かすみだかきりだか、妙な水蒸気が長らく空中に漂って去らないという不思議な天候が多く、湿りっけはいつもそこそこにあったのである。見事な虹が現れた日さえあった。そしていつの間にか秋になったな。「あきこぬとめにはさやかにみえねとも」だね、定山渓温泉はにわかに温泉に入りながら近辺のもみじのみどころを見ましょうよという宣伝を地元向けに格安の待遇で行っている。本州でゆとりのある人は来てみたらいいでしょう。9/13に札幌ドーム・現名大和なにやら・福住で、マリオン仮装の人々の駈け比べというイベントがあったが、別に大した混雑もなかった。人が集まった割にはね。観光シーズンを外れると北海道は格安になるのである。

 

2026-09-13 16:28:00

村上春樹『アンダーグラウンド』講談社学術文庫、1999年を読もうと取り組んだまさにそのとき、私は五木寛之『風の王国』新潮社、1985年も、読もうとしていた。まったくのたまたまであったが、これは私に大変好都合となった。村上さんがオウムテロ事件を理解しようとした思考の道筋と、五木さんが『風の王国』で主人公たちの「フタカミ講」という集団の生き方を構想した思考の道筋が、基本的に同じパターンの課題を、ただし随分違う輪郭で、描こうとしているように、私には思えたからである。この「課題」そのものが難問であるから、二人の作家の取り組み方も難解を極める。それを少しでも多くの人にわかるようにしようとするさいに、この「随分違う輪郭」で行われている「描き方」を対比することで、思わぬ分かりよさが生まれはしないかと私は期待するのである。議論の仕方に多少の単純化が伴うことは、私の菲才としてお許し願いたい。私はノーベル賞級作家などではないからね。普通の知識人だ。//

単純に言うと、村上さんがオウムにかかわる事件で解こうとしている最大の謎は、どうしてこれほどの理科系・文科系のエリートと言ってよい人々が、オウム教祖麻原氏の「提示」した誘いに乗ったのか・どういうところが麻原氏の「教義」の魅力だったのか、という点である。『アンダーグラウンド』巻末の「目じるしのない悪夢」(734-777頁)が、わずか40頁余の短い文章であるが、村上氏の率直な「オウム事件全体から、村上氏が読み解く問題構造」を提示している。その中でも「肝中の肝」が上述の「謎」である。(その他の論点は、読者諸氏が直接に本書を読まれれば、十分に理解されるだろうと思います。)

「目じるしのない悪夢」は、8つの小見出しで成り立っている。その中の(1)から(3)までの内容から、村上さんが「オウム事件」に読み解こうとしている「核心にあたる問題構造」を、見たいと思います。

(1)「3月20日の朝に東京の地下で何がおこったのか?」では、村上さんがオウム事件に非常な違和感を覚えたこと、たんに「オウムと言う悪い奴らが、私たちに、とんでもないテロ行為を行ったこと」という感想にとどまらず、事件になにやら「居心地の悪さ・後味の悪さ」を感じること、この「居心地の悪さ」を「解読」したいと思ったこと、を述べている。それは「悪い奴らのテロ行為」というすでに語りつくされ、言い尽くされた言葉ではなくて、「おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ---ということになるのかもしれない。」(739頁)ということになる。それはどんな物語だろうね。以下(2)(3)でその新しい物語の輪郭が提示される。

(2)「私はなぜオウム真理教から目をそむけたのだろう」では、オウム事件が「見たくもないもの」という嫌悪感を世人に(村上氏にも)感じさせるものだったが、これは実は今目の前にみるオウム事件が、いわばそれ自体実は「影の姿」(アンダーグラウンドという姿)であって、それなるがゆえにいよいよ、実は私たちが(村上氏も)見なければならない姿ではないのか。心理学的に言うと、「私たちが何かを頭から毛嫌いし、激しい嫌悪感を抱くとき、それは実は自らのイメージの負の投影であるという場合が少なくない。」(743頁)このことわけを一個の論理構造として、自我のありように絡んで表現すると、つぎのようになると村上氏は言う。

「こちら側=一般市民の論理とシステム」と、「あちら側=オウム真理教の論理とシステム」とは、合わせ鏡的な像を共有しているのではないか。「この二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているように見える。それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフエイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。」(744頁)そして次の(3)で、村上氏は問題の構造に最接近してゆく。

(3)「譲り渡された自己、与えられた物語」で、村上氏は一応の答えを与える。まあ、お読みください。まず村上氏は問題への手がかりとして、米国の連続小包爆弾事件犯人のユナボマーという人物のせりふを取り上げる。

「システム(高度管理社会)は、適合しない人間を苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ。」(ユナボマーがニューヨーク・タイムズに投書した文章の一部、745頁)

これ以下、(3)の最後まで、人間は物語を作って、物語で生きるしかなく、社会もまた物語によって成立しているのだという、たいへんな議論になっていて、これを「わかりやすく」ここで書き綴ってゆくと、まあたいへんだ。どうぞ真に理解したい人は村上氏のこの個所をお読みください・この本は当時よく売れた本なので、新刊ならもちろん古書としても簡単に・安価で・入手できます。なお最近売り出し中でよく売れている本で、Y.N.ハラリ氏『サピエンス全史』上下、河出書房新社、2023年(私は2026年というのを買った)という本が出ている。この人はいま評判がよく、その後何冊も出している。ひとが、社会が、物語を書くことから離れがたいというお話はここに全巻ながながと書いているから、お読みになるがよい。村上さんは同じことを30年前に簡潔にここに述べた。どっちを選ぶかはあなた次第。ただ、ハラリ氏についてゆくと、本代はどんどんかさんでゆくが、貴重な教養費ではなかろうか。

村上さんはよく考えてみればこれが自分という作家の取り組むべき創作活動そのものだったとしているが、本書の段階では、とても読者を納得させるほどのこの方面の実際の作品があったとはおもえない。ただ、これに先立って書かれた、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』をひきあいに出して、こで出てくる「東京都アンダーグラウンド」の怪物「やみくろ」に、オウム物語と同質の物語に自分が取り組んだとしている。これかまあ、本書に「アンダーグラウンド」というショッキングな表題がついた理由だろう。

そういうわけで、話は未完である。しかし村上氏は、氏がこれまでもっぱら欧米で物事をみてきたものを、これから日本に回帰して日本を見たいとしているわけで、そういう屈折が本書に流れている。私はそのご縁で、このあとを書きますよ(私個人もある意味でそうだからです。)

ここで私が、五木寛之『風の王国』をもってきて、関説しようとするわけは、私見では五木氏は、村上氏の「アンダーグラウンド」と論理的には同じ構造の問題を、日本人の発想と歴史的成り立ちから取り組もうとしているからです。村上さんの論法はやはり欧米の歴史的伝統を背景にした理解だと私には思われます。主体を欧米風に「独立の諸個人」としてしまうと、その論法は、少なくとも日本人には非常にわかりにくく、例証に乏しいものになります。(それで悪いとは言っていない。ただ日本人には非常にわかりずらくなる、と言っているだけです。「独立の諸個人」など日本の社会と歴史の中ではめったにありはしなかったからです。)そこへ行くと、五木さんはすっぽりと日本人の心情の中にある。

 

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