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2026-11-01 15:38:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第7回

この第7回は、(5) 古典不要論を超えて 私たちが古文・漢文を学ぶことの技能的な側面(田中草大氏) です。

 氏は、「古典・漢文を学ぶことの意義」としてしまうと、その立場が多すぎて、とても論じきれるものではない。だから、このエッセイでは、「意義」という話ではなく、具体的な「古文・漢文を学ぶことの『技術的価値』」をもっぱら語りたい、と主題を明瞭にします。

 さらに課題を絞って、「古文・漢文の技能的価値」と言っても、「古文・漢文が古典である」という趣旨によるものではない。ではどういう意図なのかというと、「古文・漢文という書き言葉の形式を学ぶ」ということだ、とします。「古文・漢文の書き言葉の形式」は、じつに現代文の書き方の形式の基礎をなすものだからである、というのです。

 現代文は、現代仮名遣いという規則に基づいています。実は現代仮名遣いは、歴史的仮名遣いに基づいているのです。(このことが一般にあまり意識されていないのは、おかしなことですよ。)つまり、本エッセイの結論としていることを先取りして言うと、「古文・漢文という書き言葉の形式を学ぶ」ことの最大の意義は、「後掲③ 現代の日本語への理解が深まること」なのです。それから、次の意義は、「後掲② アクセスできる言語資源が拡大すること」です。こういう具合に議論してゆくと、「後掲① 古文・漢文を学ぶことで、古典の原文のニュアンスがつかめること」が実は最大の意義ではなかろうかと思われるでしょうが、それは「古文・漢文を読む楽しみ」を逸してしまえば学びが苦痛になるからで、この「原文のニュアンスがつかめる」ことにあまり過大に期待しないほうがよい、とされます。

 

 私、念のために、広辞苑からの引用をご紹介しましょう。田中先生のお考えとおなじだろうとおもいますが。

 現代仮名遣とは、「仮名を用いて国語を表記する法。特に同じ語に2種類以上の仮名による表記がある場合、そのいずれによるべきかのきまり。平安中期以前の表記に準拠するものを歴史的仮名遣、発音のままに表記するものを表音式仮名遣という。現代仮名遣は、歴史的仮名遣をもとに現代の発音による区別を加味したもの」(広辞苑)とあります。

 

2026-10-31 04:56:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第6回

この第6回は、(3) 作文教育が教える日本の「論理」 感想文から多元的思考へ。(渡邉雅子氏)

1. <論理>の衝突、文化の衝突

 論理学の論理であれば、事柄には正か誤しかない。しかし行動を導く<論理>であれば、それ         は社会的合意というレトリックを含むものであり、このような<論理>は、その背景とする文化が異なれば、当然にそのありようが異なってくる。

2. 文化によって異なる<論理>

 日本人が文章を書く場合に事とする「起承転結」という論法は、米国人が文章で主張する際の「根拠から帰結(主張するところ)」という論法と、相容れない。(今の米国人は、パラグラフ・ライティングといって、文章の冒頭に帰結を置き、そのあとに根拠を述べるようになっている。)米国人には、「転」というありようが、文章の合理性(合目的性)を欠いているように受け取れる。しかし、このような彼我の文章の相違の根本には、たんに合理性ではなく、独特のレトリック(社会的合意を含める)があるように思われる。(このような論理を、氏は<論理>と呼ぶ。)

 実は、たとえばフランス人にはフランス的<論理>があり、イラン人にはイラン的<論理>があるのだ。世界の諸国民は、その依って立つ文化によって、違う<論理>の言葉を用いているのだ。

3. 社会を構成する四つの<論理>

 文化によるこのようなレトリックの違いを念頭に置いて、社会の<論理>は四種類の類型に区分されよう。詳しくは氏の文章自体を参照のこと。

4. 近代の矛盾を解決する日本の<論理>

 「ポスト近代」の今、世界の人類は心を合わせて行動しないと、世界に差し迫る危機は免れがたい。

 この状況に際して、日本式の<論理>、いわば「思いやりの論法」は、世界人類を救うために必須の使命を帯びた<論理>ではなかろうか。この日本式<論理>の主張については、氏の文章自体を参照のこと。

5. AI時代に不可欠な<多元的思考>

 今や仕事は圧倒的にAIが行うものというAI時代で、人類の使命は「答えを出すこと(それは圧倒的にAIが行っている)」ではなくて、「提示された答えを評価・判断する」ことである、とされている。

 AIの仕事に対して、人類が「評価・判断」する際の事情に合わせて、前記四つの<論理>の中のどれを、その都度、選ぶのが必要なのか。そういう意味での<多元的思考>が、いうなれば一つの型にこだわらないという<多元的思考>が、「ポスト近代」の今、不可欠のものとなっている。

 

 私には、氏のこの主張は、文と文のつながりに飛躍の多い文体のように思えます。ご趣旨はよくわかる。しかし欧米人はまず、この文章を受け入れないでしょうね。「理解」はできるが、同意はできないでしょう。なお、この「理解」は、マックス・ウエーバーの言う「理解」という特殊の意味合いのものです。

 日本の作文教育に氏が与えている評価は、これまた飛躍の多いもののように思います。戦前ですが、「綴り方教室」のような教育現場の運動があったことは黙殺しています。

 戦前の型にはまったような作文を書かされた作文教育から、戦後は、作文に際して指示を求められた教師は、「事実をありのままに書きなさい」、「感じた通りのことを書きなさい」という短い指示しか与えないようになったことを、無視しています。

 

 

  

  

2026-10-29 20:11:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第5回

この第5回は、(7) 説明の時代、雑談の行方。(谷川嘉浩氏) です。

正直のところ、この谷川エッセイへのコメントは、非常に骨が折れます。

ひとつ、単純な方法がある。このエッセイには「令和に涵養すべきアブダクションの魅力」という副題がついている。この副題がこのエッセイの「売り」だというのなら、コトは簡単。この「仮説を建てる推論(abduction)」という「説明」のありようが、最近ル―ビッグ(Rubic)という「学習の評価基準を段階別に示したマトリックス表」を使う評価のやり方としてはやっている、と説けばよい。読者は「アブダクション」と「ルービック」をAIに聞くとよい。たちまち、参照をお勧めするWEBがぞろっと提示されるから、それをお読みになればよろしい。まあ、半日ぐらいかかりますが。(きっとこの副題は、編集部が付けたのでしょう。)

もう一つ、単純な方法がある。「雑談」の真実のありようを知りたいと、まじめに問えば、76-77ページに書いてある「カントの『教育学』で示されたという」、話し合う者同士の信頼こそが真実のありようだということ。この文科省もきっと賛成するだろうまじめなありようは、参考文献として挙がっている高木祐貴『カントの道徳的人間学』を読まれれば、あなたも満足されよう。(根本的に、倫理学の論法ですから、易しくはないでしょうよ。)

でも、このエッセイにおける谷川氏の狙いは、楽しく人間同士が語り合うことを、大事にしましょうというところにあります。(これはAIには全くできないことです。)このエッセイの書き出しが、「なぜこれほど説明が求められているのだろうか。」となっている。その端的な答えが、結末の、「人間同士が話し合うことを楽しみましょうよ」としているわけで、その途中に延々とのべられている蘊蓄は、「実際には、ノウハウや考察そのものが求められているわけではないのではないか」と、ちゃんと始めからそこはエッセイの本旨ではないとことわっておられるのです。(もつとも、読者がどの程度こういう組み立てを意識するかは、大いに疑問ですけど。)

確かに「ノウハウや考察そのものが求められているわけではない」としても、そこで紹介されているいくつかの「ノウハウや考察」は、これをすいすいとみな理解する人がいたらお目にかかりたいくらいだ。チャールズ・サンダース・パース氏の「仮説形成論」ですと⁇ 「問いを提示する意義」ですと⁇ 「雑談」ということの前提は、これが文字に定式化されない「声の文化」で、いわば無文字社会時代の文化がかかわるから、「文字を内面化した私たちには想像しにくい」ですと⁇ これを問うていけば哲学上および人類史上のとてつもない大議論になってゆくわけだ。まあパース氏についてだけでも調べてごらんなさいよ。しかし、このエッセイでは、谷川氏はじつにスマートにこういうトピックを説明しています。そこがこのエッセイの「内容的」読みどころかもしれませんね。

これでは、得体のしれないコメントです。どうぞ実際にこのエッセイを丁寧にお読みください。実に得るところの多いエッセイですよ。

2026-10-28 15:51:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第4回

この第4回は、(6) 「正誤」の枠を外して、日本語の変化を味わう(飯間浩明氏) です。

主題がはっきりしているから、たんに私の感想を述べる、と言うことにする。

ことばの誤用ということが、最近よく世間の話題となる。しかし飯間氏は、ことばの変化は頻繁に起こっており、「変化した」から「間違っている」と決めつける必要はない、という。現に国語の教科書をていねいに読んでみれば、そのような「ことばの変化」の実例がよくみられる、という。そして、ことばを使う人が自分の責任で判断して使っているのなら、それでいいのではないか、と飯間氏はいう。

私には、この判断はなにか少しあいまいな気もするが、そのように「変化したことば」を使われた相手も納得しているのなら、それでいいのではなかろうか。事柄の相対化が多いのは、今の時代の特徴なのだろうか。

 今日の朝日新聞で、11ページに出てくる次の記事では、大いに考えさせられた。時代が「生成AI絶対の時代」に入ってゆきそうな予感がする今日この頃だが、「生成AI絶対」をむしろ相対化することを、現在の人類史の課題とすべきではなかろうか。

10/28 朝日新聞 11ページ 記事 「AIが起こす、寝ているバグ 幸福なIT黎明期の終わり(神里達博氏)」 参照のこと。

 

2026-10-27 04:59:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第3回

八編のエッセイが載っています。

(1)は、パスします。

(2)は、第2回として、終えました。

(4)(6)(7)を、先にコメントします。「不定形」の内容で、難物ですから。

次に、(3)(5)を、取り上げます。「正攻法」の内容で、難しいが、整っているので。

(2)を、最後とします。「国語」総体を問題にしていますから。教育という切り口で。

この第3回では、(4) 現代に必要な「読解力」とは(伊藤氏貴氏)、をコメントします。

このエッセイは、頻繁に生成AIを利用しながら、ネット上でほとんどの社会生活を行っているような現代人にとって、「国語」とは何なのだろうという問いかけで、始まります。

現代人が直面している事情は、インターネット上の文章のやりとり、そこでは映像、とりわけ動画、が重要な要素となっていること、そして、まさに生成AIの利用が、インターネット交信の中心的要素となっていること、の三つではなかろうかと、分析します。要約すれば、「SNS、動画、生成AI」という三つであると。

それにしても、この「SNS、動画、生成AI」との関係で、現代人の「国語読み書きの力」が足りなくて困っているというわけではない、と断言できます。別に誰も困っちゃいませんよ。

具体的に見てゆきましょう。

「SNSは人々が活字をやりとりする機会を大幅に増やし、活字離れどころか活字まみれの状況を生み出した。だが、そこにある文章はどれも極めて短く、(だから読みやすい)」

「以前は文字で説明しなければならなかったことが、現在は映像で見せることでよりわかりやすく伝えられるようにもなった。映像をみれば、わざわざ文書を読む必要はなくなった。」

「生成AIに関しては、その発達はことばの操作において極めて高い能力を示すようになった。大量の文書を要約し、あるいはそこから必要な情報だけを抽出整理してくれる。情報処理のために大量の文書を読むことはもはや必要でなくなった。」

このエッセイが主題にすることは、国語での「読解力」というものは、ネット暮らしの現代人がすっかり見落としている事情の中にある、というのです。そのこととは、生成AIというものには、自己がない、これを人格のように扱うのは根本的におかしい、だから生成AIには、「自分の意図」というものが存在しない、ということです。(文の表面通りの、ごく形式上の意図しかない、と言い換えましょうか。)生身の人間が駆使する国語の中にしか、ひとの(真実の)意図は、ないというのです。

ことばの中に意図があるのは、誰でも当然と思うでしょう。伊藤氏がこのエッセイで強調しているのは、実は人の言葉には「話の裏」というものが常にある。非常にしばしば、この「話の裏の意味」というのが、話の本当の中身なのだということです。

現代人は、生身の人間同士の話というものから遠ざかっていると、国語が当然に維持している「話の意味、意図」というものを読む「読解力」が失われているということを、ここでは書いている。

これはたいへんに語りにくいテーマなので、実際にこのエッセイを丁寧にお読みいただくしかありません。私がここに書いたコメントは、話のスケルトンだけですよ。

 

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