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「人新世」という名称は、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエン氏が提唱した名称で、「人類が地球の地質や生態系に与えた影響に着目し、提案されている地質時代区分名」であって、いわゆる正式の地質時代区分名ではない。「人類の活動が地球規模の環境変化を引き起こしている」という強い認識に基づいているもので、現代は地質学上の正規の呼び名は「完新世(沖積世)」なのだが、その完新世の時代の最中に「特に人類の環境破壊活動が活発になった時期」をいうものと、理解される。(端的には20-21世紀ではなかろうか)
この「人新世」という名称は、斎藤幸平さんが『人新世の「資本論」』という本を集英社新書としてお書きになったことで、読者の話題に上るようになって、それから急に知名度が増した。斎藤さんはいうなれば経済思想家で、資本主義がいま地球を破滅に追いやっている、と力説しておられる。/私はこういう解説を書く時、AIのお世話にもなっているが、だからって自分が人間中心主義だとは思わない。「人新世」という言葉を聞いて、言葉の語感を「人間中心主義」ではないかと感じる人があるやもしれぬが、それは大きな誤解ではないか。その反対に「人間中心主義を戒める思想」から出た言葉であろう。
もし人知による科学技術の発展が「地球破壊の宿命」を乗り越えて「地球の創造的発展」に向かうなら、今度は「知性代」のような名称をとなえることになるかな、とうがったことを考える人もいるようだが、私はこれはひどい空想だと思う。道理の裏付けに欠ける、語呂合わせだけの発想ではなかろうか。むろん地球の環境破壊を防ぐために現存科学技術から適当な手段を選ぶことになるやもしれぬが、そのことを以って「やはり人知の輝かしい勝利ではないか」と、説こうというのかね。/地球の議論、もう少し続けます。
「地球史」と言ってしまうと、もう少し追加説明が必要です。菲才ながら、述べます。/地球地表の歴史を表す「地質年代」というものがあります。17世紀に、ノアの洪水をもとに、近年の地質年代を「洪積世」「沖積世」と呼びました。1969年に地質学は国際的に呼称を改めて、「更新世」「完新世」としました。(だから我々の世代によっては、古いほうの地質年代名で覚えている人々がいるわけです)(なお今日の学校の試験では、後者の呼び方を正解とします)/ところで地球は、氷河期と間氷期を長い間隔をおいて繰り返しているのですが、最近80万年前から約10万年間隔で氷河期と間氷期を繰り返したといいます。この最後の氷河期が3500万年前から始まりました(これを第4紀といいます)。この第4紀について、258万年前から始まり1万1700万年前まで続いたのが「洪積世(更新世)」。1万1700万年前から始まって今日に至るのが「沖積世(完新世)」です。/17世紀には、洪積世というのは、「ノアの洪水」が済んだがまだ洪水が地上にあふれていて、水が引き始めている地質時代だと言います。沖積世というのは、洪水が退いて、沖積平野が生成した地質年代だといいます。この「洪水」という譬えは、「氷河が解けて水が地上にあふれた」ものと考えていいでしょう。/そういうわけで、人類が火の使用を始めてからの歴史というのは、洪積世(更新世)と沖積世(完新世)にまたがることになりましょう。人類史を「第4間氷期」と呼ぶのは、以上のような理由からです。/第5氷河期というような時代がいつ来るか、これは私の知恵や知識を超えます。ただ、そういう懸念を理由に、「現在の地球温暖化」に疑念を呈する人がいないわけではありません。//続けて、書きます。
思うに太古の人類が、ギリシア神話によればプロメテウスという英雄が天上の神々から火を盗んで人類に与えて以来、産業史・科学史が始まり、人類の存在そのものが「地球汚染者・地球破壊者」に発展してゆく宿命の人類史が始まった。地上生物の代表たる人類は、残念ながら地球の運命にとっては犯罪者である。地球に銀河系の他の星々並みの応分の歴史を歩ませたければ、人類の所業を強く自粛するほかあるまい。/このような指摘にあるいはなじまない人々もあるやもしれぬが、「公害」は「近代工業時代」になって初めて始まるのではない。「人類の農業時代」から起こっていることが歴然としている。環境史や環境論の本を手にしたことがある人なら、それらの本にこのことの指摘があるのを記憶しておられるはずだ。/人類の生活がある以上、この「宿命」をすっかり避けることはできない。今後ありうべきはただ一つ。人類の生活を「最大限の注意で」地球の破壊をその都度最低限にするよう努力するだけだ。/私はこのような歴史観を、「地球(環境)史」第一主義と呼ぶのです。従来の世界史は「人類史」として、残念ながら二次的に扱いたい。たんに人類の発展といわれても困るのだ。/幸いに、この見方とおなじ方向の思想や文化がすでに存在しています。政治についても、たとえば20数年前の米国の大統領候補アル・ゴア氏は、主著として著名な環境保護の本を書いていたではないか。
私は、このヤフーネットで、最近、「欧米の絶対的個人主義・絶対的自由主義に基づくリベラリズム」というものの、「絶対的正当性」を「反省すべきもの」としての言論をしてきました。/その思いが間違っているとは、思いません。/資本主義は確かに現在行き詰まっているのですが、では、資本主義的生産様式がその歴史的存在を終えたから、いま次の時代の「生産様式」が何なのか模索するのがあるべきありようか。従来であれば、コミュニズムを、もっぱら次なる生産様式として模索するという話になるかもしれません。/でも、今私は、立ち止まって、こう思考します。唯物史観の連続のように「生産様式」をたどる思考では、「時代は合わないのではないか」。「次の生産様式」という発想ではなく、時代は「人類史」ではなく、「地球史」の次元に移るのではないか。端的に言っても、人類が人類の力能と工夫で、地球自体を滅ぼしうるような物理的力を、核兵器という形で持つてしまっていることが明らかです。そしてこの核兵器を人類の自律的能力で制御する力が、今全然ないのではありませんか。/リベラリズムが大きな支えになって、国際連合をはじめ多くの国際的規律が、この第2次大戦後80年の間に、出来上がったはずです。批判点は多々あるが、しかし現在までの間に国際的に築かれてきた多くの核禁止・核制御のありようを、いまほうりなげていいはずがない。/トランプ米国がいま多くの国連機構から脱退し、多くの核禁止条約をなしにしようとする有様は、「地球史」に何もプラスになりませんぞ。/今は可能な限り、地球を守る従来の国際協定を、壊さない工夫をしたいとおもいますよ。
1/9 読売新聞 オンライン 配信 「高市首相が衆院解散を検討 23日通常国会の冒頭に...2月上中旬に投開票公算」/目の前の2026年1月23日、通常国会開催冒頭に、首相の施政方針演説なしに、直ちに衆議院解散・衆議院総選挙を号令することにしようという。そうすると2月中に投票・開票が行われることになる。在任わずか数か月で、仰天の企画である。/たいへんにうがった解釈をすれば、この内閣の施策姿勢はとうてい盤石のものには程遠く、この政治経済姿勢は現実論としては1年ももつまい。国際的には全面的に依存しているトランプ米国の体制は、これがおそるべき大噴火口の上にある様相で、いつ意外の大転落劇が起こるか予想を許さない。/いま1か月でも年月を過ごす間が危険で、現在日本の株式市場も「ご祝儀相場」の最中だし、高市氏の評判も現在悪くはない。一刻も早く、今のうちに、起死回生の大ばくちをうとうということか。/めでたくうまくゆけば、衆院過半数をとり、一挙に憲法改正まで突き進めるのではないか。乾坤一擲というわけだな。
1/10 東洋経済 オンライン 小畑績教授の文章 配信 「資本主義は頂点に達し、滅亡の始まりを迎えた」。これは最近配信されていた同教授の「2026年中にすべてが変わる。資本主義は滅ぼされる」という仰天の記事が、この正月3日間にトランプ米国のベネズエラ侵攻・保護国化という事態を受けて、ますます確実となったという見解である。/「資本主義も、民主主義も、そして国民国家という体制も、すべて終焉に向かう」という見立てである。これが「正月の正夢」ということに終わるかどうか、まじめに考えていい事だろう。東洋経済はジャーナリズム的には、株式市況の冷静な観察者しての定評があるが、「ご祝儀で浮かれていると、よもやの大暴落があるやもれぬ」という「警世」と、おうけとりになればよろしい。/この小畑先生の文章につけられた47件のツイート記事の全体が、まことに面白い。「読者は素人ばかりではないぞ」とか、「資本主義に変われるものはないぞ(アメリカ型資本主義かダメだというのならわからぬでもないが)」とか、「この文章に事実はひとつもない」とか、「現在の政治経済に役に立つ献策をしたらどうだ」とか、「筆者は大蔵省の共産主義的思想を擁護している」とか、「共産主義はソ連が崩壊した以上、まったく一顧だに値しない思想だ」とか、「トランプ米国はこれから中国をつぶしにかかるだろうから、日本はその米国の同盟者として、米国の後をついてゆきさえすればよい」とか、それ自体の是非でなく、言辞の気分を、小畑教授の文章に対する反響として受け止めればよい。(まえの高市氏の乾坤一擲の冒険に対しては、なんと7835通ものツイートがついていた。)//私、一言、マルクス主義的付言を、小畑先生の文章につけておきたい。記念のために。マルクスの『経済学批判』(岩波文庫青帯で出ている)は、『資本論』の序論と言ってもよいほど、マルクス経済学の基本的方法にかかわる文章をつらねているが、そのなかでこういうことを言っている。/マルクスは19世紀に目の前にある経済学の定説である「国民経済学」(古典派経済学とも呼ばれる)について、国民経済学が議論の前提とする「経済」すなわち人類の生存のための、自然にたいする人間同士の関係は、「生産---流通--消費」というシェーマに要約される。(なお、この消費のところを、消費が生産につながる・つまり再生産としておかないと、シェーマが繰り返すことを表現できないという)だから、「生産---流通---消費(再生産)」。このシェーマを国民経済学は当面の研究対象である資本主義経済の母体になるシェーマと考えているし、マルクスもそれを踏襲しているわけである。(ただマルクス自身が明瞭にしているように、資本主義的生産様式以前の時代は、共同体規制に強く従属していたから、上記のシェーマ中で「流通」のところは「配給」とでもしておくほかない。)さて打って変わって、21世紀に入ると、資本主義もIT時代という「新産業」を迎え、GAFAMによる「プラットホーム」というありようがGAFAMの富を支える基本的システムとなつた。この「プラットホーム」では、(たとえばグーグルをとるとわかりやすいが)「消費者」である人民大衆は、その「消費反応」をすっかり宿主であるグーグルにゆだねることになる(多くの場合検索自体は無料だが)。したがって「消費者」(検索者)は「消費活動」と同時に「生産活動」(むしろ再生産活動というべきだが)を行っていて、しかしその成果はすべて宿主であるグーグルに属している。このだれでも知っているメカニズムの中で、従来は資本主義的生産様式の不動の前提とされていた「生産--流通--消費(再生産)」というシェーマが変化していて、「生産・消費(再生産)」となっている。(流通が消えていることにご注意) だから現在の資本主義的生産様式について、その基本的な研究スケジュールを、マルクス『資本論』そのままに、「商品---貨幣---資本」というようにたどるのは、実は一考を要するのだ。「生産・消費」なら、貨幣はどこに必要なの?そもそもマルクスが想定したような「商品」が、いまどこに、どの程度、最主要なものとして、あるかな。//そういうわけで、いまだれかが「資本主義はなくなるぞ」と叫んでも、特に不思議はないのですよ。/それで、アフター資本主義的生産様式ですか?すくなくともそれは、資本主義的生産様式とはまつたく異なる「生産様式」でしょうな。