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2025-12-21 06:18:00
12/20 てれびにしにっぽん いしはぜんしゅしょうの はつげん というはいしん さんしょう。「にっぽんにとって、 かくほゆうは けっしてぷらすにはならない」。このようなけんしきを もてるじんぶつが にっぽんのしゅしょうであれば あんしんできるのだが。こくさいしゃかいは こういうだぶるすたんだーどは けっしてゆるしてくれないからだ。//どうも、日本国も、日本人も、言論の仕方が、たいへんに下手だと思います。いかなる状況下にあろうと、いかなる「理由」であろうとも、「日本国」や「日本人」が、「日本の核保有」の「必要」など述べて、いったいどう責任をとるつもりですか。はっきり申し上げて、あなたが日本人なら、この発言と同時にその発言の責任を取って自殺なさることですな。(切腹なさることだ。そうすれば、その自殺に免じて、発言の罪責を消してもらえるでしょう。)//「日本核保有の必要性」について、もし日本国とも日本人とも関係ない外国人が、それも「長期間懸命に聞いていてもなかなか全貌が理解できない深遠な所説」を前提にして、「日本の核武装是」と述べていたとしたら、そこの部分だけ指摘すれば、外国の人々が「この点」に「文句をつける」ことはまず難しいでしょう。(ただ、おなじ日本の人が、こういう運び方にいちゃもんをつけてくるかもしれません。広島・長崎の被爆を記憶しているのなら、いかなるしかた、いかなる場合でも、日本の核武装など禁句だとね。)//フランスの社会人類学者エマニュエル・トッド氏は最近50年間にわたって、世界諸国の家族型の地理的、歴史的展開を論ずる数多くの著書を書き、たいがい日本訳もされていますが、この議論の全貌はこのネットで述べるとするとまあ1年ほどは十分かかりましょうか。トッド氏は直系家族型の日本について、目下閉塞して自然な滅亡を待っているのではなかろうか、という仰天の「判断」をし、単純にそうならない道を模索するならという前提で、「日本の核武装の可能性」を話題にしています。//どういう「議論」から「こういう話題」が飛び出すのか、フェアに議論なさりたければ、どうぞ。
2025-12-20 09:09:00
私、以前、佐伯さんが朝日新聞に載せた「戦後80年」という議論を「ご趣旨あいまい」と批判したことがあった。いま佐伯さんの「ウェルビーイング」という記事を拝見して、改めて私のほうで悟るところがあった。お互いに議論が下手であった。/次のように発想を改めれば、もっと具合よく「問題」にアプローチできるのではなかろうか。//「戦後80年」をあえて二つに区切って取り組む。第一区分が1980年代から現今2025年まで。新自由主義の徹底的検討から説き起こし、新自由主義が導いたその後の世界的経済グローバリズムを批判する。第二区分が1940年代から1970年代まで。第2次世界大戦で敗北した日本は、欧米の絶対的個人主義・絶対的自由主義に基ずく「欧米的リベラリズム」を、政治・経済的価値観として「まるのみしてしまった」が、この絶対的個人主義と絶対的自由主義に「徹底反省」の目を向けようとすれば、さかのぼって歴史的な欧米の市民革命とヨーロッパの宗教改革についての思い切った議論が必要になる。/プロテスタンティズムと市民革命は、第2区分にしませんか。
2025-12-20 08:21:00
12/20 朝日新聞 13頁 佐伯啓志 「日本版ウェルビーイング」という文章が載った。日本人は米国型の個人的幸福絶対追求という生き方にはなじまない、「日本型のウェルビーイング」を求めるのだと。ここで言わんとするウェルビーイングというハイカラな言葉の趣旨は、なんと訳したらいいのだろうかな、「福祉」というのも変だ、「処世」ということになろうが、「いい意味での処世」だろう、さすれば、「つつましい生き方」とかいうことになる。「足るを知る」なぞというのはどうだ。ご趣旨には全く賛成である。/話はかわるが、先年、ある「宗教改革記念講演」で講師は、「みなさんにウェルビーイングを勧める」として、いまの日本で個人がなんらかの宗教を信仰することが、その人のウェルビーイングになるのではないでしょうか、という結論で結んでいた。この場合は信仰を勧める言葉として使われていた。ところで佐伯さんは、米国の場合、プロテスタンティズムのありようの中に神義論というものがあって、ある人物は米国の場合だが、個人による幸福の絶対追求が「神意にかなう」という神義論だとしているという。米国人のどの部分かしらないが、そういう信仰も含めての幸福絶対追求ということがあるやもしれぬ。私は日本では、キリスト教のそういう神義論が普通に行われているとは聞いたことがないが。どなたか、あるかな。私自身は仏教徒なので、こういう議論をする資格はなさそうだ。/まあ一般的議論としてなら、ドイツの著名な社会学者マックス・ウエーバーの議論として、プロテスタンティズムが資本主義の精神となったという議論とのかかわりで、資本家の「エートス」(まあ、精神とでもいうか)への信仰のかかわりを述べているのは知っているが。
2025-12-19 08:35:00
12/18 朝日新聞 12頁 「サッチャー改革」に現れる新自由主義の今日の目から見た大変な行き過ぎを反省する解説記事。長谷川さんという歴史家の文章。/当時の英国の長期に続いたサッチャー政権の様子は、当時はまるで成功の旗手みたいに絶賛されていたが、あのフォークランド沖戦争など、あんな醜悪な戦闘がありえたこと自体が情けない。(もっとも英国各地のパブの暗闇の中で、英国人男性たちが、英国海軍の古今の軍艦の写真など眺めながら、いい気分になっていただろうとは思うが)/アングロサクソン的個人主義・自由主義の普遍的絶対を踏まえるアングロサクソン・リベラリズムが、トランプ政権のありようとも強く関連して今改めて強い反省を迫られているが、私はこれをエマニュエル・トッド氏の「社会人類学的」知見を参考にそういう検討を行おうとしているが、「社会人類学」とかを持ってくる以前にも、いま「1980年代に起こった新自由主義の容赦ない再検討」という形なら十分に可能なはずで、この朝日新聞の12月19日号の新自由主義批判は、たいへんに具体的で、前向きだと思うし、有効だとも思う。どうぞ急遽ご覧ください。なお同じく11頁に掲載している朝日新聞社説の、人類が公平に医療をうけられるように、という主張は、現今まだ支配的な「超個人主義・超自由主義」を解体しなければ不可能でしょうな。さしあたり、サッチャー批判とレーガン批判でしょうね。この両者が新自由主義の旗手だった。
2025-12-16 08:18:00
12/16 朝日新聞1-2頁に、今度の「台湾防衛問題」をきっかけとした「米中会談」によって、現実論として現在の世界の政治は、G7ならぬG2(つまり米中)が二大巨頭として「牛耳る」ことになったのではないか、というおそるべき大特集を組んだ。だれの責任による文章かと言えば、朝日新聞編集陣とでもするほかなかろう。いずれにせよ、ヤフーネット記事ですらこういう思い切った構想の文章はみたこともない。いまや大新聞はネットを超えたのかもしれないね。/私もときに思い切ったことをネットに書くが、たいていはエマニュエル・トッド氏の「人類学的」言説に従いながら起こっていることだから、トッド氏その人が自分の所説を(むろん自分では深く信じているだろうが)「基本的には、仮説である。ただ事態をフランクに眺めたいだけだ」としている以上、私も究極的には自分のいうことを「仮説である」としたい。/この朝日の解説記事にしても、「現実論として、今は、こういうように見える」としているだけであろう。「こうみえる」と思う以上の含みはないであろう。/まあ以上の全体が蛇足だったかもしれないが。/この話を、せめて日本人読者に少し教訓的な「分岐」を入れて考察してみよう。この世界政治米中壟断感は、なるほど日本を埒外にしてしまうショックな見方だ。でもここには世界的に見てそれ以上に深刻・重要な問題がある。これは「ヨーロッパ諸国」を世界政治からみて二次的な存在にしてしまうという「分岐」を含んでいる。日本はともかくとして、果たしてヨーロッパ抜きに米中が世界政治を壟断できるだろうか。どういう具体的な展望や計算をもって、ヨーロッパを度外視できるとおもうのだろうか。私は知りたいね。ユーラシァを中国だけで表せるかね。そもそも中国は何語を使ってユーラシァを支配できるんだろうかね。まあ一種のブレーンストーミングだ。
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