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2016-09-13 22:36:00
数回前に、丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年で、日本語文章を考えてみようとしたことを書いた。この本は現代日本文どころか歴史をさかのぼって古代の日本文を仰ぎ見ているし、漢文の特徴も論じているし、英文の傍証もどっさり出してくる。よくても悪くても、文章を考える上でおおいに堪能した。★ この人の書いた文章をもう少し読んでみようと思ってブックオフへいったら、昭和文学全集23、小学館、1987年というのがあって、その中に丸谷才一も入っていた。値段200円。「横しぐれ」「にぎやかな街で」「だらだら坂」「贈り物」「年の残り」「歴史といふ悪夢」「未来の日本語のために」「日本文学早わかり」という丸谷の作品が収録されている。後藤明生氏が「丸谷才一・人と作品」を書いているが、これはたいへんな人物で、国文学者であるが、同時にジョイス『ユリシーズ』の翻訳者で研究者でもある。作家でもある。(芥川章受賞者)当然にいま私なぞが考えていることの上を行っている。★私は従来、小説は好きだったが、たんに内容の面白さだけで読んでいたので、結局伝奇ばかり読むことになった。それが丸谷氏に触発されて、いま初めて文章を読んでみようとしている。自分にとっての文章の必要を感じ、小説の中にもっとも文章があるだろうと予感し、小説の文章を読もうとする。★ 気がついてみると、これが学校の国語教科書がよくやる現代文読解なのだろうな。それを私は受験参考書経由ではなく、まったく自然発生的にやろうとしているわけで、これ、楽しそうじゃないの。もっとも今更東大に入るのでも一橋に入るのでもないから、まったく趣味の域です。
2016-09-13 21:47:00
どう作文するかという話の続きをする。私が米国で出会ったものの中で一番びっくりした「文物」は、英文をパラグラフで把握するというありようである。米国の大学の1年次に「アカデミック・イングリッシュ」という授業が必修であり、そこで英文パラグラフの構成や運用を実習させる。英文はだれでも書くかもしれないが、この授業に当たるものを学習していなければ、大学の授業はとうてい受けられないだろう。私は日本では、やれ文型だ、やれイディオムだ、やれコロケーションだと、人並みには勉強していたが、英文パラグラフの組み立ては、米国で初めて学んだ。★ 途中を端折る。さて日本に帰ってきてすっかり驚いたのは、誰も英文パラグラフなど意識していないことである。よくよく探してみたら、ある米国人が日本で英文パラグラフについて書いた薄い参考書1冊をみつけた。(当時米国からワードスターというソフトを持ち帰った。これも、誰も知らなかった。)★ さて年数がたつにつれて徐々に、英文パラグラフ教育が日本でも行われるようになって来た。★ そのころ(だいぶまえの話です)北大を出られた国語学者で神谷さんという人がいたが、現代日本文を、パラグラフ構造をなすものとして理解しようという活動をしていた。(この人は故人になられた)私はこの現代日本文の手法が英文パラグラフの応用であろうとすぐ感じたが、不思議なことに神谷さんは、この手法が英文パラグラフのまねだとは一言も言わない。なにか昔から日本語に備わった要素であるかのように扱う。★ 私はのちに、かの谷崎潤一郎が、文法というときに当然のように英文法を取り入れているということを知った。おもうに実際に英文法や英文構成法を取り入れていながら、あたかもそれが国語固有に存在していたかのような擬態を示すのが、現代国語の伝統なのかもしれない。★ 英文法を取り入れて悪いとは言っていない。問題は国語固有でも何でもないものを、あたかも国語固有のものであったかのように扱う姑息さである。★これでは万年、国語は成熟できない。
2016-09-13 21:24:00
文章と言えば、むかし学校で作文を書かされたことを思い出す。他人に強制されて文を書くのは、いつでもいやなものだった。★ それに、今思うのだが、作文の課題はよく与えられたが、「どう文章を書くのか」という指導を受けたことはなかったように思う。★ もちろん作文の「題」はその都度ある。「遠足」とか、「**の思い出」とか。しかしその作文をどう書くのかという指導がない。生徒は、そんなことを聞きもしないし、先生もそんな質問を受けようとは、日本では、夢にも思っていない。★ もしかりにそういう質問を先生が受けたら、先生はどうこたえるだろう。きっとこういうだろうな。「正直に、事実を、ありのままに書きなさい」「君が思った通りのことを、正直に書きなさい」ここで求められているのは、「正直に書くかどうか」ではなくて、「どう書いたらいいか」である。★ 途方に暮れた生徒は、結局のところたいへん自然に、「起こったことを起こった順に」つまり時間の系列で、書こうとするだろう。あるいは、これも時間の変形であるが、出会った場所の名前を順番に挙げてゆく(道中記形式ですね)。★ 私は一度こういう経験がある。以前米国にいたとき、作文と創作の混じったようなクラスを取った。教師が家の写真を示して、「この家のことを記述しなさい」という。私は聞いた。「どのように書くのですか。家を中から見たり、外から見たり、いろいろの書き方がありはしませんか」先生はこう答えた。「その家の外側に立った者が、だれがみてもそう見えるようなその家の主要な特徴を、記述したらどうだろう」英米ではあいまいな指示は出さない。この場合誰が見てもそうなるような特徴の記述を求める。
2016-09-13 21:19:00
9月13日・火曜日 日本ハム、対オリックス。札幌ドーム。4対2で勝つ。投手は大谷ほか。今日のヒーローは中島卓也選手。勝ち越し点を挙げた。★ 今日ソフトバンクは、雨天でノーゲーム。★ こうやって日本ハムがね順調に勝って行ってくれると、安心だ。もうすっかり秋だなあ。
2016-09-13 11:51:00
こんな話題の立て方は、とんでもない、とお思いになるかもしれません。この原稿は前回の「和文と英文」の続きとして書いており、丸谷才一『文章読本』を話題に出したから、いきおい丸谷さんが「文章」をなんだと思っておられるかをまず手際よくご紹介するという段取りになるんでしょうが、正直のところそれが不可能なのです。これは間違いなく文章を論じている本ですが、その癖、文章をどう定義しているかなどという「簡潔」な思考では処理できないのです。各章の見出しだけ示していったら、いくらかご参考になるだろうか。1. 小説家と日本語、2. 名文を読め、3. ちょっと気取って書け、4. 達意といふこと、5. 新しい和漢混淆文、6. 言葉の綾、  7. 言葉のゆかり、 8. イメージと論理、 9. 文体とレトリック、 10 結構と脈絡、 11. 目と耳と頭に訴へる、 12. 現代文の条件。★ そうです。この本は全文旧かなづかいで書かれています。筆者がその方が表現力があると考えているのでしょう。筆者にとって現代日本文は、完成度の劣る文章なのです。★ 9、10、12章あたりが、筆者のいう文章というテーマにもっとも近いものかとお思いになるでしょう。じつは私もそう思ったのですが、しかし実際に9,10,12章をどんなにひねくっても、これはとても文章の定義などではありません。もちろん無関係ではない。★もっとも文章の定義に接近しているのが、12の結びで、そこでは石川淳の作品を引用しつつ、文章を「習字」に例えている。「内容がわからなくて、習字がありうるのか」と喝破しているのです。ついに文章はもっとも広々とした場に置かれることになった。ごもっとも。まあ暇なら読んでください。