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2016-09-06 10:03:00
『徒然草』第112段 「明日は遠国へおもむくべしと聞かん人に」 要約「諸縁を放下すべきとき」(この俗世のいろいろなかかわりを、すべて放棄するとき) 第一段では、「明日は遠国へおもむくべしと聞かん人」、「にはかの大事をも営み、切に嘆く事もある人」、「年もやうやうたけ、病にもまつはれ、いはんや世をものがれたらん人」という三つの場合を例示して、いずれも遠慮なく、直ちに、「諸縁を放下すべし」という。★ 第二段も結局同じ趣旨のことを言っているが、私の心に残る語句は、ここだ。「一生は雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ塗(みち)通し。わが生すでに瑳陀たり。諸縁を放下すべき時なり。」「瑳陀」は原文の漢字がないのでこの字で間に合わせている。「さだ」。「つまずいておもうようにすすまないさま」。「日暮れ道遠し」という有名な文句は、白楽天の引用だとのこと。★ 「情け知らずと、笑はば笑へ」という流行歌の文句は、この第二段中の次の文句から出たものだろうかね。「情けなしとも思へ。謗るとも苦しまじ。」かの流行歌のその次の文句は、こうだった。「人にや、見せない、男の涙。」★ 兼好さんに逆らうのではないが、私は上記「一生は雑事の小節にさへられて」について、別の考えももっている。まさにこの「雑事の小節」の積み重ねこそ、人生そのものではなかろうか。「雑用などしたくない」という若い人に、私はこういうのである。「サルに玉ねぎを与えると、サルは早速皮をむきはじめ、やがて何にもなくなると、怒るのだそうだ。」玉ねぎの実体はまさに一枚一枚の「皮」にあるが、サルはそれを悟らない。オマエはサルか。
2016-09-05 21:34:00
『北海道新聞』2016年9月5日号1ページによると、いまやハローワーク(公共職業安定所)の窓口に座る職員自体が、9割方、非正規労働者だという。「職安窓口 非正規が9割」という見出しの記事。★ そもそも普通の勤労者が、賃金待遇が低く身分保障もない「非正規」という地位で安んじられるわけがない。そこで多くの人々が、たとえ多少賃金が安くてさえ、正規雇用の勤務先を求める。社会のありようとしてこれがおかしいということにはならない。正規雇用を求める要求は当然である。おそらくハローワークに詰めかける求職者も、二言目には「正規雇用を」求めるであろう。そのときに窓口の担当職員が、「じつはわたしも非正規雇用なのですよ」、「1年ごとの更新は2度まで、3回目は一般公募とおなじになるんです」というわけなのか。暗に、窓口にくるあなたたちが、こぞって正規雇用を求めるのは、非現実的ですよ、と「言え」というのだろうかね。公務員がいまではずいぶん非正規雇用者で成りたっていることには、以前から少しずつ気が付いていた。社会の労働規律から言って、公務員が非正規になることすら問題だ。よりによってハローワークもとはね。シェーム。 ★北海道新聞の取り上げ方は、法秩序的取り上げ方で、それで正当だとおもうよ。もうひとつ、経済的取り上げ方があるが、こっちのほうが立論が難しいんだろうね。ことは現代の会社制度のありようにかかわる根本的問題だと思うが。 会社法人を単純に営利事業者としているかぎり、この問題に解決はない。先進国で悲惨な非正規労働者の割合が増えてゆくだけだ。それにしても公務員制度はあまりにも無自覚だ。公務員労働を二重化してなんとも感じないとは。
2016-09-05 20:19:00
小西甚一『古文の読解』第1章「むかしの暮らし」・「寝殿づくりのウソ」。★ この箇所で小西さんが指摘している「平安朝のものとして描かれた寝殿づくりの図のウソ」というのは、江戸時代の国学者沢田名垂(なたり)の著『家屋雑考』に描かれていた寝殿造りの図(想定図)が、部分的には間違っていたという話である。小西さんがいうのは、寝殿作りの泉殿(いずみどの)とは「井戸を伴う建物」なので、これは決して池の上にはない。(私はこれを書くために三省堂『古語辞典』の642頁、寝殿造り読解のために、をみた) さあそこまではよくても、それなら「泉殿」は一体どこにあればいいのか。井戸さえあればどこにあってもいいということなのか。『古語辞典』をあちこちながめたが、ついに泉殿(いづみどの・旧かなではこうかく)の所在がわからない。池の上に出ているのは、釣殿(つりどの)だけだというのだ。★ ここでの例文 「今は長雨がちなり。しづやかに降りくらす日、時鳥(ほととぎす)かすかに鳴きわたり、月ほのかに見えたり。三ところながら、しづかに弾きあはせたまへる、いとおもしろし。こなたかなたの人は、泉殿に出でて聞く。」(宇津保物語・楼の上・下巻) ここに泉殿が出てくる。確かにこの泉殿が池の上に出ている場所だとしたほうが「それらしくなる」ところだが、そうではないというのだ。★ なおここで「おもしろし」ということばは、interesting ではなくて、wonderful という趣意だと、小西さんは親切な注を付けている。「三ところ」は、三人ということ。つまり(琴の)三人での合奏。
2016-09-05 16:49:00
小西甚一『古文の読解』第1章「むかしのくらし」・「都のすまい」。★ここでは、平安京と今日の京都の比較、最初の大内裏と今日の京都の大内裏の比較、当時の貴族の住居であった寝殿造り住居の、おおよその構造、この3つが話題である。★ 平安京が設計されて、ものの本には「平安京の図」というのが載っているが、しかし現実の平安京は東半分しか発達せず、西半分は発展できないでしまったという。当然今日の京都は「平安京の図」の東半分を中心に発展したのである。★ 天皇が政務をとる場所と居住する場所、それが「大内裏」(だいだいり)だが、もともとの大内裏は平安京当初の150年程度しか存在せず、そのあとはごく小ぶりの「里内裏」(さとだいり)というものが天皇の居所であった。当然いまの京都の場合もその「里内裏」である。(私はかねがね京都の御所が、予想していたものよりもずいぶん小さいなと思っていた。)★ 寝殿造りというのは、簡単に言うと、真ん中に「母屋(おもや)」に当たる部屋があり、その部屋の周りを廊下(簀子・濡れ縁)が囲んでいる構造。廊下と母屋に当たる大部屋の区切りは、格子(蔀しとみ)で行われるが、この格子を上に揚げて人が出入りすることになる。母屋の大部屋は、几帳(きちょう)と呼ばれる移動式カーテンを置いて、適宜仕切るようになる。部屋の中は板敷で、畳なぞない。人のいるところにだけ敷物をしいたりする。★ これじゃ冬、寒いのではないかと思うだろう。例文は徒然草第55段を引いて、建物は夏さえ良ければよい、といっている。なにやらわがアイランドコーポの夏季居住者みたいだ。「家の造りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは、たへがたきことなり。」「むね」とするとは、なんだろうと、『古語辞典』をひいたら、「宗」という漢字をあてていた。「中心となること」という意味だと。
2016-09-05 15:40:00
『徒然草』108段 「寸陰惜しむ人なし。」(わずかばかりの時間を惜しむような人はいない) この段は、「寸陰」わずかばかりの時間をどう考えるかという話で、非常にわかりやすい主題だ。★ 「寸陰」といえばすぐ思い出す言葉は、「一寸の光陰軽んずべからず」(ちょっとの時間でも無駄にするな)であろう。兼好は、寸陰を何のために惜しむのかによって意義が違うといっている。寸陰を仏道のために惜しんでいるのなら意味があるが、俗事のためであれば寸陰を惜しむも何も、無意味だというのであろう。★ 「一寸(いっすん)の光陰軽んずべからず」は、受験生に戒めの言葉として課されることが多い。かくして、電車の中で英単語を覚えようとしたりするわけだ。私は、現代、その程度の心がけがあったほうがいいとおもいますよ。★ ただ、兼好さんには申し訳ないが、道心とてさらさらない私は、多少違う解釈をする。★ 第一段で、「一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人をも富める人となす」という文句は、うちの叔父が愛好する標語であった。叔父はこう言っていた。「一銭を笑う者は一銭に泣く。」俗な話だが、スーパーのレジで、たった1円足りないばかりに千円札を出して、ジャラジャラとお釣りをもらう不愉快さを経験した人はざらにいるだろう。(この第一段は「ちりもつもればやまとなる」というような話だね。) ★ ただ第二段の、明日必ず死ぬと決まったら、何をしても無駄だから、なにもしないだろう、というのは、どうだろう。そうと決まっても、単語を暗記していたりして、何が悪いものかね。気晴らしにもなるだろうが。