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2016-09-06 10:03:00
『徒然草』第112段 「明日は遠国へおもむくべしと聞かん人に」 要約「諸縁を放下すべきとき」(この俗世のいろいろなかかわりを、すべて放棄するとき) 第一段では、「明日は遠国へおもむくべしと聞かん人」、「にはかの大事をも営み、切に嘆く事もある人」、「年もやうやうたけ、病にもまつはれ、いはんや世をものがれたらん人」という三つの場合を例示して、いずれも遠慮なく、直ちに、「諸縁を放下すべし」という。★ 第二段も結局同じ趣旨のことを言っているが、私の心に残る語句は、ここだ。「一生は雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ塗(みち)通し。わが生すでに瑳陀たり。諸縁を放下すべき時なり。」「瑳陀」は原文の漢字がないのでこの字で間に合わせている。「さだ」。「つまずいておもうようにすすまないさま」。「日暮れ道遠し」という有名な文句は、白楽天の引用だとのこと。★ 「情け知らずと、笑はば笑へ」という流行歌の文句は、この第二段中の次の文句から出たものだろうかね。「情けなしとも思へ。謗るとも苦しまじ。」かの流行歌のその次の文句は、こうだった。「人にや、見せない、男の涙。」★ 兼好さんに逆らうのではないが、私は上記「一生は雑事の小節にさへられて」について、別の考えももっている。まさにこの「雑事の小節」の積み重ねこそ、人生そのものではなかろうか。「雑用などしたくない」という若い人に、私はこういうのである。「サルに玉ねぎを与えると、サルは早速皮をむきはじめ、やがて何にもなくなると、怒るのだそうだ。」玉ねぎの実体はまさに一枚一枚の「皮」にあるが、サルはそれを悟らない。オマエはサルか。