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2016-09-05 16:49:00
小西甚一『古文の読解』第1章「むかしのくらし」・「都のすまい」。★ここでは、平安京と今日の京都の比較、最初の大内裏と今日の京都の大内裏の比較、当時の貴族の住居であった寝殿造り住居の、おおよその構造、この3つが話題である。★ 平安京が設計されて、ものの本には「平安京の図」というのが載っているが、しかし現実の平安京は東半分しか発達せず、西半分は発展できないでしまったという。当然今日の京都は「平安京の図」の東半分を中心に発展したのである。★ 天皇が政務をとる場所と居住する場所、それが「大内裏」(だいだいり)だが、もともとの大内裏は平安京当初の150年程度しか存在せず、そのあとはごく小ぶりの「里内裏」(さとだいり)というものが天皇の居所であった。当然いまの京都の場合もその「里内裏」である。(私はかねがね京都の御所が、予想していたものよりもずいぶん小さいなと思っていた。)★ 寝殿造りというのは、簡単に言うと、真ん中に「母屋(おもや)」に当たる部屋があり、その部屋の周りを廊下(簀子・濡れ縁)が囲んでいる構造。廊下と母屋に当たる大部屋の区切りは、格子(蔀しとみ)で行われるが、この格子を上に揚げて人が出入りすることになる。母屋の大部屋は、几帳(きちょう)と呼ばれる移動式カーテンを置いて、適宜仕切るようになる。部屋の中は板敷で、畳なぞない。人のいるところにだけ敷物をしいたりする。★ これじゃ冬、寒いのではないかと思うだろう。例文は徒然草第55段を引いて、建物は夏さえ良ければよい、といっている。なにやらわがアイランドコーポの夏季居住者みたいだ。「家の造りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは、たへがたきことなり。」「むね」とするとは、なんだろうと、『古語辞典』をひいたら、「宗」という漢字をあてていた。「中心となること」という意味だと。