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2016-09-03 00:19:00
『徒然草』第59段 「大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。」(仏道修行によって悟りを開くことを思い立つほどの人は、本当はやることが残っているんだなどということにかかずらわないで、そういうことどもをそのまますっかり捨てなければならないんだ。)で始まる段。「大事」などというと、赤穂浪士の敵討ちみたいに聞こえるが、ここではさにあらず。「仏道修行によって悟りを開くこと」である。★今日の世相では、若い者が老親に持ち物を捨てさせることを、言うようだ。「断捨離」だとね。老親が死んだあと、残った子供たちの面倒となるから、老親自身に持ち物をすっぱり整理させよという「世間の知恵」だ。実につまらない知恵ではないか。たとえば大量の古書を抱えている者は、札幌のブックオフを呼びさえすれば、喜んでやってきて、短時間で、舌なめずりするように本を回収してゆく。もっともブックオフは、カネはたいしてくれまいよ。「図書館に残す」とか、「故人の文庫の名を遺す」とか、いろんなことを考える若い人がいるが、100万に一つもそんなことは起こらない。図書館が迷惑な顔をしているだけだ。あとは何とでもなるから、老親に死ぬまでその家財道具と一緒におらせたいものだ。『徒然草』は大事を思う人はこういうものも捨てよと、「老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情け、捨てがたしとて捨てざらんや」という。★ ここに父親に捨てられた「いしどう丸」の悲話が後世出てくるんだね。「してして、くにはいずくで、なはなんと」「くにはつくしのまつらがた、加藤左衛門しげぅじが、わすれがたみのいしどうと」。これも因縁。
2016-09-02 22:17:00
『徒然草』第58段、「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんにかたかるべきかは」といふは、さらに後世知らぬ人なり。(仏心さえあるのなら、普通に家に住み、世間の人と交際していても、特に何の不都合もあるまい、という人がいるが、これでは仏心を知るものとはいえない)と書き起こされる段。私たちがよく「在家仏道」と呼んでいる信心の仕方を取り上げて、さすがに社会が進んできたのだから、まるっきり山野に生きるようなしかたではなくて、それなりに雨露を凌ぐ生活をすることになるのは当然だが、それにしても宮仕えをしたり、一家の大黒柱となって一家の面倒をみたりというような生活は思いも及ばず、日常きわめて質素な生活をすべきだろうというのである。その質素な生活を、「紙の衾、麻の衣、一鉢のもうけ、あかざのあつ物、いくばくか人の費えをなさん」と述べているが、不思議なことにこのように描かれているのはまさに私の日常の生活そのものですよ。★私に別に仏心も道心もないが、しかし結果的にはこの『徒然草』第58段は、いまのわたしのありようそのものです。私は近年新たに洋服も靴も買うことはなく、ご飯は一回に一膳と決めてそれ以上は食べず、おかずを支えているのはたいていうちの家庭菜園の収穫物です。直接には出費を減らそうという理由でこうなるが、実際にはそれで間に合っているのです。私のアパートで「シンプル・ライフ・プラン」などと呼号しているが、思うに私自身も極めてシンプル・ライフなのです。
2016-09-02 16:21:00
解説者の木藤才蔵さんは、『徒然草』の課題は、「無常」であろうと。しかしドナルド・キーンさんは、「暗示/不均整/簡素/無常」の4つが『徒然草』の課題であろうと。これは判断の基準が初めから違うのである。木藤さんは「人生どう生きる」を基準にする。ところがキーンさんは、「日本人の美意識」を思うとこれが「暗示/不均整/簡素/無常」の4つの要素から成り立っていると判断され、日本の古典『徒然草』の中にはこの4つの要素が見事に揃っているというのだ。★私は今はキーンさんを遠慮なく切り捨てて、木藤さんを優先する。★ 木藤さんによると、『徒然草』の中で「無常」という課題が特にめだつ段は次のとおりであると。すなわち、「『徒然草』の中で、人生の無常を説き、また、仏道修行に専念すべきことを説いている段は、49、58、59、74、75、108、112、137、155、166、174、188、189、241、242の諸段である。」(266頁)この中で木藤さんが「解説」冒頭で盛んに利用したのは、58,59,108,112,155段だ。ではこの第58段から読んでみよう。(さあみなさん、どんな版本の『徒然草』を持っていても、段さえ指定すれば、すぐご一緒に読めますよ。暇な人はご一緒にどうぞ。)★ 美意識だって。「色即是空」という言葉をご存知であろう。日本人は美を重んじる心はあっても、「美意識」を前面に立てることには(たとえかりそめでも)どうも気乗りがしないのだ。★ なお、中高校生諸君に言う。『徒然草』は国民的古典で、古文の重要教材だから、参考に私の文を読んで勉強にしよう、などとは思わないほうが良い。諸君の立派な教育環境からいうと、わたしの文は、諸君にためになることばかり書いているわけではないからだ。だから、読むな。仮に読んでも、一切話題にするな。
2016-09-02 15:49:00
さて私の『徒然草』を開いてみると、まず真っ先に目にとまって読み始めたのが、木藤才蔵氏の筆になる「解説」である。「解説」を読み始めると、「中世の人というのは、死というものを、たいへん身近に感じていたのではないか」(261頁)というふうな書き出しだ。私は早速ここにひっかかってしまった。「今日最貧層にある人々の多くも、死を身近に感じている」。しかしこの「死」というのは、にわかに物理的な死ではない。医療は今日たいそう発達しているので、いざ野垂れ死にしそうになった人々を決して死なせはしない。今日至る所にある死とは、「社会的な死」であろう。人がムラやマチにもういられなくなるという「死」。中世の死に対する恐怖心を木藤氏はこう描く。「死および死後の世界に対する恐怖心が、現代のわれわれの想像を絶するほど大きなものであったからだろう。」(263頁)いま平成の御代でも、ムラやマチに住めなくなったわが身の行く末を思えば、暗くもなろう。そのような地獄の姿は、新聞の毎日の三面記事に満ち溢れている。「死の恐怖を取り除いてくれるものであるならば、人はすべてを放擲して、仏道修行に専念すべきである。」(263頁)しかし兼好は、すつかり僧になるわけではないが、それなりに行いすましてこの世を送る。その日記がこの徒然草であろう。いま私たちは、仏道修行という「最善のありよう」を思うにしては、目の前の仏道はすっかり葬式仏教になりはてている。無常の思いこそが木藤さんに言わせれば(たぶんどの日本人に言わせても)『徒然草』に一貫する主題であろうと。★ さあ、ドナルド・キーン氏とはずいぶん違ってきた。
2016-09-02 09:22:00
『徒然草』の内容は、243段の短文である。内容がこのように細切れになっており、各段は必ずしも順番があるわけではない。だから「読む」といっても、私どものような素人は1日に一段ずつでも読めたら上出来だ。つまり『徒然草』だけでも1年弱続くことになる。★ 私ができそうなことは、丁寧な(権威のある)注解を書くことではない。(それはどなたか玄人衆がやっている)私ができそうなのは勝手な感想を書くぐらいのものだ。★ こういうことをするとなると、「版本がうんぬん」というご託がよく出てくるが、私はこの「新潮古典集成」の一、『徒然草』をたった108円で札幌某ブックオフで入手した。(同時に『竹取物語』、『伊勢物語』、『枕草子』も買ったんだ。)なおキーン著『古典の楽しみ』が取り上げている版本は「岩波書店・日本古典文学大系」である。私の方のこの「新潮古典集成」は、原文に「対訳」をつけたというに近いもので、国民が古典に親しむぐらいしか念頭に置いていない。単語や文法の注は最低限しか行っていない。(必要だと思えば自分で古語辞典などを引くしかない。)こういう身軽な感じが、読み初めの今、私には好ましい。★ 近年、古文の版本や参考書が、ただ同然でブックオフに並ぶようになった。(なぜだろうね、大学の国文科が流行らなくなったのか。)この「新潮古典集成」だって、昭和52年当時なら『徒然草』の場合1500円もしたのだ。今はこういう本を読む楽しみは、最貧層の志の高い者がだれでも容易に行える。★ 以前だったら私も、こういう本に書き込みを加えたりするのを躊躇した。「誰かが私の後でこの本を利用するだろうから」と思って。今はそのような斟酌は無用だな。これは文字通り私の本だ。