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2016-09-02 15:49:00
さて私の『徒然草』を開いてみると、まず真っ先に目にとまって読み始めたのが、木藤才蔵氏の筆になる「解説」である。「解説」を読み始めると、「中世の人というのは、死というものを、たいへん身近に感じていたのではないか」(261頁)というふうな書き出しだ。私は早速ここにひっかかってしまった。「今日最貧層にある人々の多くも、死を身近に感じている」。しかしこの「死」というのは、にわかに物理的な死ではない。医療は今日たいそう発達しているので、いざ野垂れ死にしそうになった人々を決して死なせはしない。今日至る所にある死とは、「社会的な死」であろう。人がムラやマチにもういられなくなるという「死」。中世の死に対する恐怖心を木藤氏はこう描く。「死および死後の世界に対する恐怖心が、現代のわれわれの想像を絶するほど大きなものであったからだろう。」(263頁)いま平成の御代でも、ムラやマチに住めなくなったわが身の行く末を思えば、暗くもなろう。そのような地獄の姿は、新聞の毎日の三面記事に満ち溢れている。「死の恐怖を取り除いてくれるものであるならば、人はすべてを放擲して、仏道修行に専念すべきである。」(263頁)しかし兼好は、すつかり僧になるわけではないが、それなりに行いすましてこの世を送る。その日記がこの徒然草であろう。いま私たちは、仏道修行という「最善のありよう」を思うにしては、目の前の仏道はすっかり葬式仏教になりはてている。無常の思いこそが木藤さんに言わせれば(たぶんどの日本人に言わせても)『徒然草』に一貫する主題であろうと。★ さあ、ドナルド・キーン氏とはずいぶん違ってきた。