インフォメーション

2016-04-08 14:59:00

2008年8月に米国でサブプライムローン危機が明瞭になり、有力な証券会社リーマンブラザーズが倒産、保険最大手のAIGが政府の救済を受けた。今日「リーマン。ショック」あるいはリーマン大恐慌の名で知られる世界的な金融恐慌である。堺屋太一は2009年に『凄い時代』講談社という本を書き、この本の中で、このリーマン恐慌はポスト冷戦後に確立した「知価社会」の、これがじつに知価社会らしい特徴を備えた最初の恐慌であると喝破した。

欧米社会、とりわけ米国の経済社会はいまでもリーマン金融恐慌の強い陰に怯えている。それは当然だろう。リーマン恐慌を忘れているほうがよほどの極楽トンボで(それがじつにわが日本なのだが)、世界の金融は明瞭にリーマン恐慌の陰にある。リーマン恐慌に際して崩壊に瀕した多くの有力な金融機関を救済するために始まったのが、いまに続く低金利政策だろう(ゼロ金利政策と、極言してもよい)。昨年(2015年)末、ようやく米国連邦準備銀行は、おそるおそる「普通の金利政策」に戻ると声明した。2016年中に数回の金利引き上げを行なって「正常」に戻ると宣言した。(なんとリーマンショックのあった2008年から数えて8年も経っているのだ)それなのに、ご承知のように今年(2016年)初頭に襲ってきた世界的な金融変調を米国連邦準備銀行は強く懸念し、またまた「ゼロ金利政策」に戻ってしまった。それだけではない・米国がドルの安値を希望するという強いメッセージを伴っている。

まあこれでわりを食うのは欧州と日本であろう。ユーロは高めになり、円も高めになる。現にそうであり、今後もそうであろう。これはドル安のシャドウ現象である。

リーマン恐慌の再来を恐れる米国指導者達の意思は非常にはっきりしている。

こうなると、アベノミクスはおしまい。円安に誘導しながら株高をもたらそうという運動はもう無理。日本の再軍備であろうが、沖縄基地であろうが、憲法第9条の書き換えであろうが、もうそんなことはどうでもいい。(もちろん米国の軍部の指導者はそれを希望するだろうが、それよりも政策的に上位におかれているのが、リーマン恐慌を防ごうという米国の指導者たちの強い意志であろう。日本軍が武器を持って米国海外派遣軍の後についてきてくれるかどうかという話は、当面どうでもいい。)

日本というのは不思議な国で、国際的に見て常識と思える判断が、日本国内ではぜんぜん出来ない国である。いままちがってでも円為替を日本政府がいじってご覧。たちまち5月の国際会議では、日本は、「世界が問題にしていることがぜんぜん分からない国」として、はっきりボイコットされると思う。

安倍がこういった、管がこういった、麻生がこういった、石原がこういった。?なんというあきれた国だろう。かれらがいろいろ言おうが答えはひとつしかない。為替はいじれない。だから安倍が言ったということのほうが、内容的には常識である。フオーチュン誌など、米国の経済社会が当然のようにリーマン恐慌の影に怯えていることを隠そうともしていない。世になにごともなく、勝手な絵が描けるものと思っているのは、日本と日本人だけではないか。

こうなってくると中央銀行のマイナス金利など、とんだ見当違いの政策だ。マイナス金利はやめたらよい。当面財政出動でもして景気を維持したらよい。姑息な手段だが、しばらくはもつだろう。海外から見たらこれがいちばん分かりよい(当面の)日本の政策だろう。もし安倍内閣にこれが理解できなければ、別の人々に交代するだけのことだ。

 

 

 

2016-04-02 23:25:00

2016年4月2日号、北海道新聞9ページの「読者の声」を読んでいて、思わず奇異の念に打たれた。竹沢さんという人が、書いた「緊急事態条項の危うさ」という「声」である。安倍首相の示唆するような、政権に強い権限を与える「緊急事態条項」を憲法草案に盛り込む発想は、ナチスドイツがかつてドイツ・ワイマール憲法48条にあった「国家緊急権」を「運用」して決定的なヒトラーへの「全権委任法」を得、ワイマール体制とは似ても似つかない「第三帝国」を作ったありようとあまりにも類似していると、危惧のことばを述べて居られる。

私はいま『世界の名著・トインビー』中央公論社、1967年を読み始めていたが、その16ページで、蠟山政道氏の「トインビー紹介のことば」として、トインビーがカレッジの教師であった頃、第1次大戦が勃発し、大戦の様相がギリシャの昔のペロポネス戦争の様相と似ていることに感銘を受けた、という話が出ている。「そのとき突然わたしの蒙が拓かれた。現在この世界において現に経験しつつある経験は、すでにとうの昔にツキュディデスが彼の世界において経験済みのもの(ペロポネソス戦争)だったのです。いまやわたくしは新しい目をもって、彼、ツキュディデスを再読しつつあったのです。」(トインビーのことば) トインビーはまさに「歴史を再発見した」という思いに打たれるのです。トインビーのこのような思いが、巨大作『歴史の研究』につながったのですね。

歴史は元来決して同じように繰り返しはしません。まったく同じ歴史が二度あらわれることはないでしょう。しかし極めて類似しているという思いを歴史家に抱かせることはないとはいえないのですね。現在の安倍内閣の意図と、前世紀ワイマール体制下のナチスドイツの勃興とは、あまりにも符合する政治的経済的事情が目立つように思い、ご同様、大いに奇異に思います。多数決の名の下に専制を行なおうとする野心が、あるいは両者に共通なので、類似が目立つのかもしれません。

アナロジーはあくまで、アナロジー。同じだとは言っていません。ただ、警世の言葉ととられるがよい。

 

2016-04-01 08:40:00

過日ゆうちょ銀行の窓口にいたら、このような窓口風景があった。

やや大きな金額を引き出そうとしている老人に対して、窓口は、10項目近い「振込み詐欺防止アンケート」用紙を提示しながら、そのアンケート項目のいちいちについて「そうでない」という確認を求めている。

最近流行の「おれおれ詐欺」の具体的な防止策にゆうちょ銀行も協力しているという一幕であった。

しかし経済社会が普通に運用されていればまずは絶対にありえないはずの「ゼロ金利」(最近はマイナス金利も)のもとで、経済社会が普通に運用されている場合に庶民が貯金に期待してよい利息がほとんどありえなくなっている状態を他方において考えれば、おどろくべき不釣合いがここに存在する。かりに2パーセントなり3パーセントなりの金利が常識であれば、国民経済的には振り込み詐欺で失われる被害額の何十倍になるのか見当もつかない巨額のプレミアムが庶民から奪われていることになる。

立花 隆『滅びゆく国家』日経BP、2006年の329ページに、立花はこう書いている。

「何年にもわたるゼロ金利政策によって、貯蓄者(国民全体)から、ゼロ金利でなければ得られたであろう所得が奪われ、その分、銀行に所得移転が行なわれてしまうという恐るべき国民全体からの富の収奪と、それによる銀行救済が行なわれてきた。」

この引用文は直接にはバブル期の経営失敗からの銀行救済を庶民からの超低利の預金に転化したことを指している。それにしても根本的意味に変わりはない。

ある財界人は、利子がゼロ金利になることは、資本主義の機能停止である、とすら言っている。

こういうとんでもないことが可能になる前提が、1970年代の金ドル不換以来の変動相場制、通貨の完全な管理通貨化、先進国で常態になってきた膨大な国債の発行体制であることは明らかである。膨大な国債発行によって強行的に作り出された巨額の国家信用を背景に超低金利政策が行なわれ、その中で前記立花の引用文が指摘するような大衆収奪が当然のように進行しているわけである。

これはいわば大仕掛けのおれおれ詐欺ではないのか。

 

2016-03-30 08:48:00

先に、立花 隆『滅びゆく国家』日経BP、2006年 の内容紹介をしよう、と約束した。この本の内容が小泉時代を構造的に紹介し議論するものだったので、この内容をいまの安倍時代に重ねると、より視野の広い構図がわかると思うからである。

しかしそれに先立って、この本が成り立った時期を調べておこうと思った。

この本は日経ウエブに立花が書いている『立花 隆のメディア ソシオ-ポリティクス』というウエブページに由来すると、立花はこの本に書いている。10ページ

であれば、この立花のウエブページが今日どうなっているかを見るのが先決だろう、と思った。それらしきものの残置は、みられる。しかし本が出版された翌年である2007年の途中で、止まっている。日経BPは今も、ブログを開く手助けをするサービスをしているが、いま立花のブログがそこで動いているというのではなさそうだ。

この当時小泉首相は、郵政民営化一本に絞った構造改革を世に問うていた。今の私たちには分かるとおり、郵政民営化は実現した。ところで、立花はこの『滅びゆく国家』の中で不思議がっている。いったい小泉氏は、郵政民営化一本に絞った経済政策提起ばかりしているが、郵政民営化が実現した後の経済政策はナニを考えているのか、驚いたことに何も分からない。資金量350兆円の郵便局を潰した後はこの回転力に頼っていた日本経済の部分についてはどうするのかぐらいは明らかにすべきだと思うが、それもない。322‐323ページ。

私たちはこの後2008年に世界的なリーマンショックが日本を襲うことを知っているし、日本の政局は小泉首相が引退し、安倍、福田、麻生という3人の自民党の政治家が相次いで急遽首相になり、自民党が引いて民主党が政権につくことを知っている。

2007年に立花氏のブログが突然停止する。この頃目立ったニュースというのは、ひとつは立花氏自身がガンにかかったこと、立花氏はガン闘病生活に入る。 もうひとつは立花氏がその頃安倍氏遺産疑惑問題に興味をもって関わっていたことで、父親である著名な政治家安倍晋太郎氏から死の直前に自己の政治団体への寄付という形で安倍晋三氏に6億円が渡るのは相続税制違反ではないのかという話題で、某週刊誌と安倍氏事務所が係争中であった。さいきんこの件に関連して「甘利政治資金疑惑」と関連付けた短い記事が立花の名でネット上にみられるだけである。まー10年も昔の話なので安倍氏の「禊」は払われたと、みんな思っているのだろう。

10年前に日本の政治と経済の構造にあれほど興味をもって関わっていた立花氏の姿は、今日出版でもネットでも影が薄いといわざるをえない。立花氏は存命中であるから、もし私がいま書いていることが不当と思われるのなら、どうぞいつでもネットに現れていただきたい。

小泉、今の安倍と重ねて、構造的にみると、ここに大きな構図が浮上してくる。小泉氏が「郵政民営化の後にやるのは憲法改正だろう」と、小泉氏の親友といわれる政治評論家淺川博忠氏が述べていた由。前掲立花著297-299ページ 小泉氏はまず選挙で大勝利をし、自分の独裁的発言力を党内でも確立した上で、憲法改正に臨むつもりだったのかもしれない。しかし当時ではこのように記録しておきながら立花の目ではとても小泉時代にそうなるという現実味がなかったのだろう。

選挙で大勝利し、更に又来るべき選挙で問答無用の大勝利をした後で憲法改正の政局に臨むのは、いまでは安倍内閣の正夢になっているではないか。安倍氏の党内独裁力もいまなら最高に高まっている。まさに安倍晋三氏は、小泉氏の第1の後継者であった。

このように小泉、安倍と並べての構造的改革とみると、もうひとつの、立花氏がみたくてもみえなかった郵政民営化の後の経済政策というのが国民に見えてくる。

いま日本銀行のマイナス金利政策で、日本の金融構造がいたるところで軋みを生じているが、なかんずくとうてい放置できない危険域に入っている箇所がふたつある。ひとつは地方銀行である。知ってのとおり地方銀行の多くが、地元での貸付先を見つけるのがいまも昔も大変で、勢い溢れる余裕資金をコールに出したり日銀に預金したりして凌いでいる。今回のマイナス金利はこの余裕資金運用の道をほとんど奪ってしまった。(とつぜん地方銀行の合併がまたまた取りざたされるのもそのためである。)もうひとつはいっそう深刻である。郵貯銀行である。ここは資金の7割を国債運用していた。マイナス金利で国債市場はただならぬひん曲がった市場になった。今更急に郵貯銀行が、「多様な運用」を工夫する時間的・体制的ゆとりがあるのか。このような不安定なときであるから、ほんの僅かな不手際でも容易ならぬ大事に繋がる危険がある。

私はマイナス金利という政策は、郵貯銀行を立ち往生させて何者かにのっとりやすくさせようという大陰謀ではないかと疑う。

みんな郵貯銀行を欲しがっていたが、なかんずく米国金融資本が非常に欲しがっていた。

郵貯銀行がぐらつくことは、郵貯銀行だけでは済まない。日本の国債発行体制を揺るがしたらどうする。

 

2016-03-29 11:02:00

2016年3月29日。今日、安全保障関連法が施行を迎える。思えば戦後70年の歴史は、日本国憲法第9条の内容を改正して最初の姿の正反対のものに変えてしまおうとする運動が着々と成功する足取りの歴史だった。戦後の日本の政治史はこの件を軸として回転してきたと言って過言ではなかろう。この運動は日本の変わらぬ「同盟国」米国が陰に日向に日本に対して希求してきたことも確かである。しかし世界は米国と日本だけで成り立っているわけではない。いつの日か、世界が世界の世論を挙げるときには、日本国憲法第9条の内容を骨抜きにしてきたこの戦後70年の日本の政治的歩みは、戦前に日本がいわゆる15年戦争に突入したさいの「画期」を、盧溝橋事件(その後日中戦争になる)とハワイ空襲(太平洋戦争始まる)に比すべき「画期」と評価するかもしれない。

日本国憲法第9条自体の条文を見れば、この「画期」の姿がはっきりする。

周知のとおり日本国憲法第9条はこうである。

第2章 戦争の放棄

第9条「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」

① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸空海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この第9条が「戦争の放棄」をうたっており、「戦争の放棄」の具体的内容として、「戦力の不保持」と「交戦権の否認・いわゆる不戦」を定めていることは明らかである。

戦後我が国の政治史は、まず「戦力の不保持」という規定を空洞化することに熱中した。その「画期」が「自衛隊の創設」(最初警察予備隊の創設として出発した)なのが明らかだろう。その場合の憲法解釈は、「自衛隊は憲法第9条にいう戦力ではない」であった。(だから戦車ではなく特車であり、軍艦ではなくて自衛艦であった。ただ、海外では軍隊として処遇されていた。)日本国憲法に言う「戦力」は自衛のために日本がもつ戦力を含まないと解釈しているのである。

次にわが国の政治史は、「不戦条項・交戦権の否認」という規定を空洞化することに熱中した。それが近年の激論である。自衛権を集団的自衛権に拡大し、さらにこの集団的自衛権を海外にまで拡大して、「わが同盟軍を海外でも守る戦闘行動」にまで及ぼしたのが、今回の「画期的」な安全保障関連法である。このように集団自衛権で日本国憲法を解釈し、かつそのような自衛権が発揮される場を海外にまで広げることは、この運動以前の運動ではなかったことであった。その意味で今回の安全保障関連法は二重に画期的である。

しかし日本国憲法第9条を骨抜きにするような政治過程を、戦前の日本の政治史とだけ比較するのは無理。むしろ1930年代-1940年代に起こったドイツでの、ナチスドイツ勃興の政治史と重ねるほうが親近性があろう。とりわけ当時のドイツが、第1次大戦の敗戦後に成立した「ワイマール憲法」と「ワイマール体制」下で、形式的には「ワイマール体制」下の合法性に従いながら、実際には「ワイマール体制

とは似ても似つかない「第三帝国」を作った歴史と、事ある都度比較されることになるだろう。

ただ、ドイツ第三帝国には、宗教的要素というものが皆無で、指導者ヒトラーといえども神ではなかった。その点で日本は今も昔もおよそ近代とはかけ離れた宗教的要因が強く政治に持ち込まれている。あの戦時中でさえ、宮中を遥拝している日本の庶民に、ドイツの外交官が声を掛けて、「ツアーがどこかの窓から見ているのか」といったというが、天皇がみていようが見ていまいがそちらの方を拝むという日本人の行動は、日本人にはあたりまえでも、ナチスドイツの外交官には奇異であったろう。

日本にファシズムが成長するとしても、ナチスドイツ型になるのか、宗教的要素を根強く帯びたものになるのか、いまはそこまではわからない。しかし今の政治過程は単純な戦前復帰ではなく、日本に独自のファシズムが誕生していることを、想定していいのではないかと思う。

ドイツが敗戦してナチスが消滅したとき、ナチスが数百万人という人間を殺害したことが誰にも明瞭になったが(敵対するもの、邪魔なもの、を殺害したのである)、「こういったことをいったいドイツの普通の市民はまったく知らなかったのか」という怒りの声に対して、ドイツ市民は「知らなかった、知らされなかった」と応えた。しかし、「うそをいいなさい。しらないはずがあるものか」と言われて沈黙するしかなかった。政治過程の狂気は容易にみとおせることである。あまりにも単純な狂気ではなかったのか。