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2022-10-28 21:12:00
まず、「漢字が重大な一部になってきた」日本語本体は何だったのかということを、明瞭にしておく。日本語本体は「やまとことば」である。平安時代には「やまとことば」の世界は、宮廷でひらがな(女文字)という文字表現を確立するに至る。庶民の間ではひらがなという文字表現もまだ未発達と思うが、少しずつ庶民もひらがな表記をわが物とするようになってくるであろう。さて漢字表記が「鎌倉時代以後、一般の人々の間にまでひろがった」のが、日本語本体の中に漢字表記(ととうぜんに漢文読み下し調の口語表現)が広がってきたのが、いわば漢字表記日本語化の最初の波であろう。そもそも支配者階級が下々に命令する口頭による漢文読み下し調がまず存在して、その記録体である漢文表記がそれに従い、庶民も最初は「聞く」ばかりだった漢文読み下し調をだんだん漢文表記という形式でも使えるようになっていつたものと思われる。そして、この鎌倉時代から南北朝をへて室町時代、庶民は「命令される」という形で聞くばかりではなく、仏教僧侶の説教を聞くという形で、あるいは戦記物の語りを聴くという形で、漢文読み下し調に親しんできたのであろう。日本語において、庶民は、漢文読み下し調を「公式言語」、やまとことば調を「私的言語」として使い分けるようになってゆき、漢文読み下し調の場合は元々の漢文が規範的文体として常にれっきとして存在しているので、ぶれが少なく、使い方が安定していたのに対し、やまとことばは、規範性に劣り、年数がたつとどんどん変化してゆくという性質をもっていた。(このことは時代がずっと下がっても言えると思う。)「江戸時代になり、印刷が発達したこと」は、日本語の標準化をだんだん伴うようになったろうし、明治の欧文翻訳文体の登場は、日本人が漢文に対して行ってきた「訓読」に似た、「新たな訓読」で、欧文調という文体を作るようになった。結局日本語という言語は、漢文調が表層に広がっていて、公式の性質をもち、やまとことばが深く沈潜して私的言語であり続けるという二重構造のものとして生成し、現存しているのではなかろうか。
2022-10-27 21:18:00
10月15日の場合、「呪縛からの脱却」と副題を入れていた。(しかし、ではどちらのほうに向かっていたのだろう。)/終戦で父親か゛復員してきた。それにしても、仕事などおいそれとあるわけがない。何もすることのない人々が、路上にたたずんでいるという風景が多くなった。子供もまたあちこちにいるが、何もすることがない。新しい風景というと、時々路上に進駐軍の兵士たちが現れて、なんとはなしにたたずんでいる(それに数名の子供が群がって、「サービス」「サービス」と言って手を出していた・時々大人も一人ぐらいいて、手を出しているのだから情けない。たばこの端切れなりと欲しいのである。)/あるとき私は、家の中で、父に返事をするさいに、「オーケー」と言った。とたんにぶん殴られて、「この家の中で敵国語を使うな」と怒鳴られた。そのあとじゅんじゅんと、なぜ英語などを口走ることになるのか詮索されたので、白状した。じつは数日前に英会話手帳というのを駅前の書店で買ってきた。それを少しずつ口ずさんでいる。ただいま物資不足のとき、物資を持っているのはあの進駐軍だけだ。私は叔父が素焼きに描いている美人画をあの人たちに売りつけて、その代わりに砂糖なり牛乳なりを買いたいのだ。/父は「そういうことは、おとながかんがえることだ」と言った。それ以来片言英語学習はなんとなく許可され、結局こんな具合で始まった商業英語を後年私は商工会議所に教えに行ったりしている。(そのうらはらに日本語学習が疎遠になった。)いま私の畏友某氏が言われるには、その人の父親は終戦時のローマ字論者だったそうで、「お互い、父親の意図には背いたな」と。
2022-10-27 20:47:00
漢字が日本語の重大な一部となってきた経過。大野 晋『日本語の年輪』新潮文庫、昭和41年/平成11年の238頁より。
「...漢字・漢語は外来のものである。それゆえ日本語とよく調和しない点もあり、不便もある。しかし...鎌倉時代以後、一般の人々の間にまで広まり、明治以後は漢字でヨーロッパ語を訳することによって多くの新しい観念を日本に取り入れた。今日では、それは必要な日本語の成分になっている。これを軽く見てはいけないと思う。それゆえ、漢字を制限し、漢字は滅びる文字だと宣伝することによって、若い学生に漢字学習の意欲を失わせ、昭和三十数年間の文献すらも読みこなせない状態に追い込み、一方、漢字の造語力を低め、その結果、世間一般のアメリカ化の傾向にもとづくカタカナ英語の増加の傾向に拍車をかけたことに戦後の改革の最大の問題がある。戦前ならば漢字を追い出せば、ヤマトコトバがそれに代わる役を果たしたかもしれない。しかし、日本の敗戦による自信喪失、ヨーロッパ化の時期に、漢字を追い払うことだけをすれば、ヤマトコトバの造語力を助長するよりも、カタカナヨーロッパ語の増加を結果として受けとることになる。戦後の国字改革は、この点に対する見通しを持たずに行われた。」「このままで行けば将来の日本語の中で漢語の占める役割は低下するであろう。」と慨嘆しておられる。
2022-10-27 09:07:00
昨日まで4回にわたって、「文字というありよう」という題で、10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字の出会い」という教養番組を視聴した感想を述べていた。その感想の中で私は、漢字のありようにも触れる機会があった。/しかしいま私は反省している。漢字の問題を一般的な文字の歴史的考察から切り込むのは、たいへんに一面的ではなかろうか。また、漢字だからというので、これは字形それ自体の問題ではないかと考えるのも一面的。日本語の使い方、使われ方の中に漢字の問題は存在するのだから、「日本語における漢字」「日本語の中の漢字」として問題をとらえなおしてみたいものだ。むろん文字一般の歴史的・科学的考察にも、学ぶべき点は多々あろう。/もうひとつ。歴史的な漢文の中に存在していた漢字が出発点なのは確かだが、しかし漢文における漢字と、日本語における漢字では、論点に画然とした違いがありはしないか。むろん漢文における漢字ということがそれ自体として重要だろうとは思うが。私はやはり「日本語における漢字」を追求していたのだろう。/いま手元に大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、初版昭和41年(私は平成11年、第52刷を所持している)、で「日本語の歴史」を回顧し、漢字がどのようにして現代日本語の中核の地位にあるかを考えてみたい。これは予告。
2022-10-26 18:24:00
文字というありよう(4) 文字認識に伴う大きな問題。 10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字との出会い」を視聴しての感想。文字の認識は、人間の脳に非常な負担を強いているという。この負担を軽減するために、人間は文字認識の上での「はやとちり」を行いやすいのだという。端的には、間違った内容のものでも、本来のその文字であるかのように「読んでしまう」のだと。つまり、誤読が起こるのは、ある意味では正常な現象だと。漢字をみていろいろ誤認識を起こしている人の割合というのが、(デイスクレシアと呼ばれている)漢字のよみ、書きで、それぞれ8パーセントはあろうというのだから、これは大変だ。あらゆる小学生が、目の前の漢字を、正当に読め、書けることを「当然」と考えるほうが乱暴だということになる。漢字のような表意文字でなく、欧米のアルファベットのような表音文字の場合でも、幼時に「デイスクレシア」になってしまうケースは決して稀ではないという。文字は、特に漢字は、たいへんな文化遺産だ。他方でこの文字を扱うことは、人間にある種の苦労を背負わせるのは間違いないことだということになる。