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2021-10-29 19:39:00

経済学の対象

 宇野派経済学三段階論という、恐ろしく大仕掛けな話に次いで、恐縮だが、続けて大仕掛けな話を出しておきたい。それは、経済学が、そもそも何を研究する学問なのか、という話題である。

マルクスは、『経済学批判序説』で、国民経済学(古典派経済学)は、「生産-交換・分配-消費」を経済学の研究対象と考えた、という。

「物資の生産-分配-消費」ということであれば、その必要は過去にさかのぼってあらゆる人間社会に必然の事であった(こういうことを、経済原則という)。この過程が繰り返されることは、主体である人間が生存する以上当然のことでありましょうよ。

 そしてこの国民経済学の「生産-交換・分配-消費」という過程は、この「経済原則」を踏まえ、経済原則に規定されるでしょう。(当たり前だろう。)

 しかし、なにが「生産-交換・分配-消費」されるというのか。「商品」が、ということでしょう。「商品生産-商品流通-商品の消費」。だれが、か。小生産者。かれが自給する分は市場へは入らない、他人に売る分しか市場には入らない。他方、彼が買う他人の生産物も市場から買うわけです。このような「商品経済社会」が既に大変な広がりをもつているわけです。そうすると、この「生産-流通-消費」という過程は、その主体になる生産者は、もっぱら他人のために労働を行う「商品生産者」、その同じ彼は、他人が自分以外の者のために生産した商品をもっぱら買って生存する、ということになります。こういう前置きの下に、主体は「商品生産者」ということになります。

 それにしても、この商品の「生産-流通-消費」は、経済原則を満たすはずのものだが、これが果たして経済原則を満たすと確信できるものなのか、この「生産-流通-消費」が継続・反復しうる保証はどこにあるのか、形式しか示されていないではないか、という不満があるいは出てくるかもしれないが、まーとにかく、現にこうなって動いているのだから、ということで、商品の「生産-流通-消費」されている社会が、商品生産者社会が、商品経済が、国民経済学の対面する研究対象だと納得しましょう。

  ところが、マルクスは、こう批評します。国民経済学は、生産と分配が同一だ、生産と消費が同一だ、生産-分配・交換・消費が同一だと主張したがる。しかし、国民経済学にとって、真の問題は、生産と分配が同一だというようなことではなく、「生産、分配、交換、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総体の全肢節を、ひとつの統一の内部での区別を成していることである」(『経済学批判序説』)

  この肢節の連関が、表面上の連関ではなくて、必然の連関として把握されるためには、この連関の総体が一体何なのかということが明かにされなればならないだろうと、マルクスは考えます。そしてこの連関の総体を「生産」しているものを、国民経済学が知らない新しい概念であるとし、この新しい概念を「生産様式」と呼びました。これが『資本論』全編を以って論じられる「資本主義的生産様式」です。「資本主義的生産様式」は『資本論』全編を通して講究し、明らかになってゆくわけですが、『資本論』第一部、「資本の生産過程」、第二部、「資本の流通過程』、ははあ、「資本の生産-流通」ということだな、と分かりますが、資本の消費というのは妙ですね、「資本の再生産」ですよ、資本の生産・再生産ということにおいて、資本における「生産=消費」なのですね。そういうわけで、資本の生産、資本の流通、資本の消費(資本の再生産)ですね、「資本の分配」とは何だったか、これは剰余価値の分配ですよ、資本間で剰余価値が再分配されるありようですが、この資本と言う中に、「派生的資本」も含まれるわけです、詳しくは『資本論』全編を読むしかありません。

つまり国民経済学が商品の「生産・分配・流通・消費」とみた「経済学の対象」をマルクスは、正しくは資本の「生産・分配・流通・消費」であろうと、見たわけです。国民経済学は資本を目の前に現に麗麗と見ていながら、見ているものが見えない、それが単に商品経済としか見えないのでした。

こういうことがはっきりとマルクス『経済学批判序説』に書いてあるのに、この「経済学の対象」という議論になかなか気が付かないわけで、私なんかもこれをはつきり悟ったのは、経済思想家今村仁司氏(故人)に教わってからですよ。今村さんはフランスの科学史思想家であるルイ・アルチュセール(故人)の思想の日本での紹介者でした。今村仁司『歴史と認識』新評論、1975年に、はっきりと書いてあります。

目の前にあるのは、商品経済は商品経済であつても、資本主義的商品経済、その主体でもあり客体でもあるのは、資本です。たんに商品経済ではない。それを一言で資本制社会と呼んでいる。

なるほどそうか、労働力も商品化されて、労働市場と称している、土地も商品化されて不動産市場と称している、資本も商品化されて毎日株式市場で売買されていたと、気が付く、そういう意味では主要な生産要素は現にみな商品化している。ではこういう議論は「商品」という「共通項」でみな括ればけりがつくのかといえば、全然つきますまい。

『資本論』冒頭で、ブルジョア社会の富は商品の巨大な集まりになっている。だから我々の議論は「商品」から始まる、というのは、「ブルジョア的」には大変分かりやすい書き出しのはずですよ。マルクスはきっとその辺をじゅうぶんに意識している。かといって国民経済学者がつゆ疑わず対象にしてる商品の「生産-交換-分配-消費」をこれから論ずるんだという考えは、マルクスには一つもない。マルクスは『資本論』で、終始、資本を論ずるつもりなのです。

 

 

2021-10-29 09:44:00

金曜日・朝方曇り・札幌。☆道新天気予報では「12時まで曇り、その後晴れ」「気温13-8度」。☆野口悠紀雄氏「日本を衰退させる『悪い円安』 日銀は緊急利上げで阻止せよ」ダイヤモンドオンライン、10月28日配信。輸入インフレを抑止するため緊急利上げせよ、という趣旨。堂々の立論である。ところで、この記事に対してついている大量のツイートをみんな読んでみると、ツイートしている「大衆」の全体を考えると、堂々以上に堂々と立派な現実論を展開している。何よりも好感が持てるのは、このツイートしている「大衆」の全体は、ちっともパニクらずに事柄の全体に対面していることだ。資産の国内での買いを言ったり、米国の国債に資産の大半を移したり、などと個人的対応を 言う人もいるが、全体から聞こえてくるのは、日本としては内需振興で対応しようという。どうもこういうときには、偉い人が一番バカなことを考えやすいものだ、政府はよくよく考えて、いい手を打ちなさるがよい。

2021-10-28 23:40:00

宇野先生は、マルクスが『資本論』で説いている資本主義的生産様式というのは、本来「資本主義的商品経済」社会論であって、商品形態が一社会の内部に浸透しその社会を全面的に律するに至ったものであると、資本主義社会における商品形態の基底性を把握される。こういう把握に合致しにくい議論は『資本論』から排除して純化した議論が、先生の「経済原論」である。

資本主義の歴史的推移に伴って、資本制も生成、発展、爛熟と経過することになるが、その歴史的諸段階に応じて、その時期の「典型的な国」について、その段階に特徴的な規定をまとめた「段階論」を想定する。(生成期=重商主義、発展期=自由主義、爛熟期=帝国主義)折に触れて議論する必要がある事柄は、この「経済原論」と「段階論」によって理論的に規定された「現状分析」として取り組まれるべきであろうと。

この「経済原論」「段階論」「現状分析」という三段構えの理論的枠組みは、宇野派経済学の三段階論と批評されてきた。

 

ところで、マルクスの『資本論』は、経済理論であるばかりでなく、たいへんに歴史的な議論であり、そのうえたいへんに思想的な議論である。それが宇野先生の経済学では、歴史的な議論は割愛され、思想的な議論も割愛され、「経済原論」という「資本主義的商品経済論」が純化して残された。そして「資本主義自体の歴史」はもっぱら「段階論」という議論の中に閉じ込められることになった。

宇野派がマルクス経済学の主流派である限り、たしかに斉藤幸平氏が指摘されるように、歴史や思想という切り口から資本主義を考えよう・『資本論』を読もうとする者が、研究のしょっぱなから排除されるという思いが残ったかもしれない。それはよく理解できる。しかしだからと言って宇野派に学ぶことをしないでそれを頭から排除するというのは、これまた大変な行き過ぎであろう。宇野派には学べき優れた特徴も数々あるのだから。

 

2021-10-28 08:38:00

木曜日・朝方晴れ・札幌。☆道新天気予報では「12時まで曇り、18時まで雨、21度まで曇り、その後雨。要するに、午後は雨になるんだ。」「気温15-9度」。

2021-10-27 11:09:00

(4) 経済政策論に関連する話題 に続く

ところで年に1回ぐらい、原田先生はこういうエピソードを話された。産業予備軍の問題について、あるとき宇野先生にこういう質問をされた。「産業予備軍も生存しなければならないが、その生存費用はどこから出るのでしょうか」。宇野先生の解答は、「それはパートタイムだろう」ということであったと。産業予備軍は、蓄えの費消なり、生存費用の切り詰めなどを行うだろうが、どうしてもそれでは到底足りなくて、同胞労働者に援助を仰ぐことになるだろうと。いわば同胞労働者がパートタイム化することで、失業者に仕事を作ると。たが、と原田先生はいう。それでは労働者全体の再生産が果たしがたいではないかと。つまり、「パートタイム」では理論的解決ではあるまいと。

そもそも資本主義の各段階ごとの「資本の政策」というのは、歴史の変遷に対して資本主義がどう変容するのかという優れて歴史的な議論であって、『資本論』自体は、それを「資本蓄積の歴史的法則」として提示している。その資本蓄積の歴史的法則のかんどころをなすものが、「資本の原始的蓄積」と「産業予備軍の生成」である。その後者がパートタイムではとても収まるまいと。

ところが、斉藤氏の議論は、この産業予備軍について、図らずもマルクス自身の「前進的」見解を示すことになったようだ。産業予備軍を養うには(生存させるには)「非資本主義環境」が必要になる。産業予備軍の不時の増大は産業予備軍の生存を助ける非資本主義環境をいつそう拡大することになる。そして産業予備軍の生存を助けている間にその「非資本主義環境」は荒廃し破壊されてゆく。この「環境」というのは、国内にとどまらない。ますます海外に広く及んでゆく。

 産業予備軍の絶えざる存在は、資本にとっては、存続と発展の必須条件である。しかし労働者からは、労働者階級窮乏化のきわみであり、生活環境破壊の広がりである。

 この回答なら、原田先生も満足されたに相違ない。

 ところで、この非資本主義環境とは何か。(こうやってゆくと大議論になってくるので、今はここでSTOPしておく。皆さん考えてみなさいよ。)ただ、これだけはいま言っておく。従来「非資本主義環境」という言葉は、資本主義が海外に新規市場を開拓するさいの対象地域を指す言葉だった。例えばローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』は、資本主義が発展し続ける条件は、資本主義に必要な広さの海外市場が、従来未開拓の「非資本主義領域」に広がってゆくことであるとしている。だから「非資本主義領域」の消滅は、ローザの議論では資本主義の発展停止を意味することになる。(こういう議論を、いわゆる市場問題というよ。)従来マルクス主義は、非資本主義環境をもっぱら販売市場拡大の条件と考えていた。ところがわが斎藤流では、資本主義が破壊する自然環境ととらえているのだ。ここが従来とおおきに異なる点で、従来の議論のメタルの裏側を重視する議論だ。

公平のために、付言しておくが、この解決は、宇野弘蔵先生は、おそらくは認めないであろう。

その理由は、いささか、議論を要するので、後日書く。「非資本主義環境」というような解決を、宇野さんが認めるわけがない。