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(4) 経済政策論に関連する話題 に続く
ところで年に1回ぐらい、原田先生はこういうエピソードを話された。産業予備軍の問題について、あるとき宇野先生にこういう質問をされた。「産業予備軍も生存しなければならないが、その生存費用はどこから出るのでしょうか」。宇野先生の解答は、「それはパートタイムだろう」ということであったと。産業予備軍は、蓄えの費消なり、生存費用の切り詰めなどを行うだろうが、どうしてもそれでは到底足りなくて、同胞労働者に援助を仰ぐことになるだろうと。いわば同胞労働者がパートタイム化することで、失業者に仕事を作ると。たが、と原田先生はいう。それでは労働者全体の再生産が果たしがたいではないかと。つまり、「パートタイム」では理論的解決ではあるまいと。
そもそも資本主義の各段階ごとの「資本の政策」というのは、歴史の変遷に対して資本主義がどう変容するのかという優れて歴史的な議論であって、『資本論』自体は、それを「資本蓄積の歴史的法則」として提示している。その資本蓄積の歴史的法則のかんどころをなすものが、「資本の原始的蓄積」と「産業予備軍の生成」である。その後者がパートタイムではとても収まるまいと。
ところが、斉藤氏の議論は、この産業予備軍について、図らずもマルクス自身の「前進的」見解を示すことになったようだ。産業予備軍を養うには(生存させるには)「非資本主義環境」が必要になる。産業予備軍の不時の増大は産業予備軍の生存を助ける非資本主義環境をいつそう拡大することになる。そして産業予備軍の生存を助けている間にその「非資本主義環境」は荒廃し破壊されてゆく。この「環境」というのは、国内にとどまらない。ますます海外に広く及んでゆく。
産業予備軍の絶えざる存在は、資本にとっては、存続と発展の必須条件である。しかし労働者からは、労働者階級窮乏化のきわみであり、生活環境破壊の広がりである。
この回答なら、原田先生も満足されたに相違ない。
ところで、この非資本主義環境とは何か。(こうやってゆくと大議論になってくるので、今はここでSTOPしておく。皆さん考えてみなさいよ。)ただ、これだけはいま言っておく。従来「非資本主義環境」という言葉は、資本主義が海外に新規市場を開拓するさいの対象地域を指す言葉だった。例えばローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』は、資本主義が発展し続ける条件は、資本主義に必要な広さの海外市場が、従来未開拓の「非資本主義領域」に広がってゆくことであるとしている。だから「非資本主義領域」の消滅は、ローザの議論では資本主義の発展停止を意味することになる。(こういう議論を、いわゆる市場問題というよ。)従来マルクス主義は、非資本主義環境をもっぱら販売市場拡大の条件と考えていた。ところがわが斎藤流では、資本主義が破壊する自然環境ととらえているのだ。ここが従来とおおきに異なる点で、従来の議論のメタルの裏側を重視する議論だ。
公平のために、付言しておくが、この解決は、宇野弘蔵先生は、おそらくは認めないであろう。
その理由は、いささか、議論を要するので、後日書く。「非資本主義環境」というような解決を、宇野さんが認めるわけがない。
(3)から続く
愉快なのは、この人が、自分は宇野派からまつたく影響を受けなかった、「宇野派からまつたく影響を受けない環境でマルクスを自由に研究できた」としていることである。それだからこそ、『資本論』について自由な読み方ができた、と言っている。
日本のマルクス学は、『資本論』の理解は深いが、宇野派の影響が非常に強かった、から経済思想の自由な発展に遅れた、と言っているようである。
これはたいへん興味深い指摘で、この指摘が分かる点は非常に多いのだが、しかし人情としてはちと宇野派に気の毒な気もする。おもいきり宇野派の偏向を批判しきれなかった努力不足を自ら批判するのみである。それにしても私が愛読している宇野弘蔵『経済政策論』弘文堂など、画期的な本だったな。(他方で批判はさせていただくけど)
宇野弘蔵『経済政策論』は、昭和16年・1931年、宇野先生が東北大学法文学部助教授の時出版された本だ。資本主義には発生期、発展期、爛熟期があり、それぞれの時期の「資本の客観的政策」は異なった特徴を持つであろうことを論じた本である。私は昭和30年代に、原田三郎先生が「経済政策論」をこのテクストで講義されるのを、法文1番教室で3年間聴講した。なかなかわかりにくい講義内容で、いつもわからないことがたくさん残った。
この「前編」には、「日本人はなぜ気候変動問題に関心をもてないのか?」という題がついている。斎藤氏はこのことを、日本人の多くが次のようなメンタリティになっているからだと思っているようだ。
日本人の思想の現状は、生産力の発展の上で将来に解決を見たいが、日本経済が一向に経済成長の可能性を見せないから、いま何を考えても逼塞するしかないみたいな、出口のない逼塞感に囚われている、とみる。この逼塞感を打ち破る新しい思想がいまの日本に必要ではないか。マルクス読み直しは、そういう新しい思想に繋がらないか。こう斎藤氏は、考えているようだ。
この斉藤幸平という人は、日本的にみると、たいへん変わった経歴の人で、そもそも日本の大学は東大に数か月(しかも理科の学生だった)在学しただけで、あとは米国の大学、そしてドイツの大学院で、学者になつている。
この人は、経済思想への傾斜はすでに在日中にもっていて、いまみられるようにマルクス学者だというほどマルクスの思想に傾斜したのは、まず米国における自由闊達なマルクス思想の研究に刺激されてのようで、ドイツでの蘊蓄、日本マルクス主義への傾倒が、それに続いて起こっているもののようだ。
面白いことに、この人は、日本のマルクス主義思想については、たいへんに限られた接点から(しかし深く学んだというわけだが)しか学んでいない。若い時に学んだ物象化論の広松渉、後年深く学ぶようになった久留間鮫造、大谷禎之介、の名が挙がる。日本的に言うと、初期マルクスの人間主義の影響は強く、この辺がアルチュセールとは一線を画そうとする姿勢になるのであろう。(ある意味でアルチュセールを評価しつつ、しかし一線を画そうとする。これはこの人の『資本論』のみには重点を置ききれない姿勢に通じるのであろう。そうすると勢い、生産様式論を現実には評価していながら、あえて生産様式論をひとまとめのものとはしないで、あえて区々バラバラに扱おうという姿勢につながるのであろう。)
マルクスの議論の大枠は、次のようになるのではないか。
マルクスの思想の大枠。資本主義という社会システムは、資本が自らは作ることができない労働を、自らの勢力の下に調達・制御できなければ成り立たない。その労働の対象ともなり、手段ともなる自然についても、同様である。
資本主義という社会システムは、「失業」を作り出すことによって、労働者を制御し、しかるべき賃銀で必要な人数の労働者を雇用できるような体制を作り上げている。
資本主義というシステムの中で行われる自然破壊の中で、もつとも手ひどい自然破壊は、失業した労働者が生存する条件を模索する中で生じる。資本にとっては雇用の安全弁として作用しているこのような「失業者群」を、マルクスは、産業予備軍と呼んだ。