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2022-10-27 20:47:00
漢字が日本語の重大な一部となってきた経過。大野 晋『日本語の年輪』新潮文庫、昭和41年/平成11年の238頁より。 「...漢字・漢語は外来のものである。それゆえ日本語とよく調和しない点もあり、不便もある。しかし...鎌倉時代以後、一般の人々の間にまで広まり、明治以後は漢字でヨーロッパ語を訳することによって多くの新しい観念を日本に取り入れた。今日では、それは必要な日本語の成分になっている。これを軽く見てはいけないと思う。それゆえ、漢字を制限し、漢字は滅びる文字だと宣伝することによって、若い学生に漢字学習の意欲を失わせ、昭和三十数年間の文献すらも読みこなせない状態に追い込み、一方、漢字の造語力を低め、その結果、世間一般のアメリカ化の傾向にもとづくカタカナ英語の増加の傾向に拍車をかけたことに戦後の改革の最大の問題がある。戦前ならば漢字を追い出せば、ヤマトコトバがそれに代わる役を果たしたかもしれない。しかし、日本の敗戦による自信喪失、ヨーロッパ化の時期に、漢字を追い払うことだけをすれば、ヤマトコトバの造語力を助長するよりも、カタカナヨーロッパ語の増加を結果として受けとることになる。戦後の国字改革は、この点に対する見通しを持たずに行われた。」「このままで行けば将来の日本語の中で漢語の占める役割は低下するであろう。」と慨嘆しておられる。
2022-10-27 09:07:00
昨日まで4回にわたって、「文字というありよう」という題で、10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字の出会い」という教養番組を視聴した感想を述べていた。その感想の中で私は、漢字のありようにも触れる機会があった。/しかしいま私は反省している。漢字の問題を一般的な文字の歴史的考察から切り込むのは、たいへんに一面的ではなかろうか。また、漢字だからというので、これは字形それ自体の問題ではないかと考えるのも一面的。日本語の使い方、使われ方の中に漢字の問題は存在するのだから、「日本語における漢字」「日本語の中の漢字」として問題をとらえなおしてみたいものだ。むろん文字一般の歴史的・科学的考察にも、学ぶべき点は多々あろう。/もうひとつ。歴史的な漢文の中に存在していた漢字が出発点なのは確かだが、しかし漢文における漢字と、日本語における漢字では、論点に画然とした違いがありはしないか。むろん漢文における漢字ということがそれ自体として重要だろうとは思うが。私はやはり「日本語における漢字」を追求していたのだろう。/いま手元に大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、初版昭和41年(私は平成11年、第52刷を所持している)、で「日本語の歴史」を回顧し、漢字がどのようにして現代日本語の中核の地位にあるかを考えてみたい。これは予告。
2022-10-26 18:24:00
文字というありよう(4) 文字認識に伴う大きな問題。 10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字との出会い」を視聴しての感想。文字の認識は、人間の脳に非常な負担を強いているという。この負担を軽減するために、人間は文字認識の上での「はやとちり」を行いやすいのだという。端的には、間違った内容のものでも、本来のその文字であるかのように「読んでしまう」のだと。つまり、誤読が起こるのは、ある意味では正常な現象だと。漢字をみていろいろ誤認識を起こしている人の割合というのが、(デイスクレシアと呼ばれている)漢字のよみ、書きで、それぞれ8パーセントはあろうというのだから、これは大変だ。あらゆる小学生が、目の前の漢字を、正当に読め、書けることを「当然」と考えるほうが乱暴だということになる。漢字のような表意文字でなく、欧米のアルファベットのような表音文字の場合でも、幼時に「デイスクレシア」になってしまうケースは決して稀ではないという。文字は、特に漢字は、たいへんな文化遺産だ。他方でこの文字を扱うことは、人間にある種の苦労を背負わせるのは間違いないことだということになる。
2022-10-26 13:14:00
10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字との出会い」を視聴しての感想。文字というありよう(3) 文字の力能。「文字にどんな力能があるか」。言葉を文字であらわし、その記録を他人に見せ、この記録を保存して将来に残すことで、言葉であらわした内容が定着し、他人に伝えられ、その記録・記憶が将来にも残る。文書記録という文化遺産はますます膨大となって、人間の記憶を助ける。まさに文化遺産。言葉のままでは、情報力、記憶力、それぞれ非常に局限される。 ところがこのような文字の力能は、その裏側では、権力者の支配・統制の下に置かれやすいという性質が伴うことになると、番組は教えてくれる。言葉のままであれば、権力者の支配力は文字よりはるかに及びにくいと。言論の自由というとき、言葉のレベルでの自由と、文字・文章のレベルの自由では、次元が違ってくるだろう。だから世にいうではないか、「筆禍」と。 「権力者による文字の独占」は、封建時代に下がっても見られた。「文字を独占する者」がまさに支配者階級の標識である。庶民は「識字率の高さ」という点で、支配者階級とはっきり区別されている。しかしわが国の江戸時代の庶民識字率は大変高くて、70パーセントほどと推定されている。他方同時代の英国の庶民識字率は20-30パーセントぐらいのものだという。宗教的背景が、西欧のキリスト教会とわが国の仏教寺院という相違は、なにかの役を果たさなかったかな。
2022-10-26 08:56:00
文字というありよう(2) 文字と言葉の間(はざま)。10月25日、NHK、BS3、「ヒューマニエンス 人類と文字との出会い」を視聴しての感想。文字といえば、ただちに「それは言葉だ」と思う。それには間違いない。しかし文字と言葉の間には現実には相当の距離があるのだということを、私たちに思い知らせてくれる番組であった。1.人類発生に20万年かかったが、文字が成立してから5千年ぐらいしかたっていない由。2.文字は数えた数を残す必要が生じた「人間の経済活動」に由来するのではないかという。3.太古の文字は絵文字として発生し、絵を組み合わせて特殊の意味を作るものとして成立して、非常に早い時期に1500字ないし2000字程度になっていたと、きっと漢字などを例にして、推定するのだろう。4.ところが、今日までの人類の文字の発展のあとを回顧すると、世界の大多数の民族の文字は「表音文字」で、漢字のように「表意文字」なのは非常に割合が少ないという。もっとも漢字は、カタカナという表音文字の工夫を伴ったし、日本などはさらにひらがなという表音文字を工夫した。こんな具合に漢字を観察するのも、興味深い。さて、漢字の未来の運命いかんと、思いやるのも一興。終戦時、ローマ字論者が数多く表れて、日本語をローマ字表記することをもって今後標準にしようと主張した思い出がある。中国も建国時はローマ字表記が中心になった時期がある。韓国などは完全に幾何学的図形(一種の表音文字であろう)で表記するようになった。漢字はすでに表音文字の攻撃に出会っている。