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昨日5月27日の試合(対巨人戦3対2の勝利)も、一昨日5月26日の試合(対楽天戦9対6の勝利)も、テレビで全部みた。今現在の目の前の試合をしっかり勝つ。野球というゲームは、基本的にこれに尽きるのではないか。その課題をいま現在しっかり果たす。(時には負けるかもしれないが)こういう感触を体感できるときに、野球は見る人に面白い。それにしても5月27日の試合は、チーム全員気合が入っていて、見事であった。*さて、今日の対巨人戦。さあどうなるか。
道新5月26日号朝刊、6頁「医学部不正入試に賠償命令 性差別正当化終えん願う」(山口一男氏の文章)東京地裁が19日、順天堂大学医学部の入試で女性が性別を理由に差別されたとして、同大学に賠償を命じた件への批評である。山口氏は、まずこの賠償金の額が桁違いの少なさだと難じるが、この裁判をとおして順天堂側が行った弁明の中に、「看過できない日本の組織の問題がある」と考えている。要は、日本の社会にこれまで広く行き渡っている「女性が男性に劣る」とする「空気」の存在である。「既存の男女不平等の結果を前提にして女性差別を正当化するさまざまな弁明」がこれまで行われてきた(今回の順天堂の弁明もその一例に過ぎない)が、こういうことにけりをつけてゆかなければなるまいというのである。*せめて司法の場でぐらいは、従来のこの社会の女性差別の「空気」を弁明の背景とするような愚挙はきっぱりなくしたいものだな。どうおもいますか皆さん。
5月26日道新朝刊1頁「在外投票不可は違憲 裁判官の国民審査訴訟」。裁判官の国民審査は、国民の権利であり、海外在住の日本人がこの審査の投票に加われないのは違憲という昨日出た最高裁判決。国会がこの件を改善する努力をしていなかったとも判断している。また原告に賠償支払いも認めている。*この件は、従来長きにわたって、政府側にさまざまの「不作為気分」があったように思われる。この最高裁判決は不退転の司法判断を示した。権力者の醸成する「空気」が国民を支配してはなるまい。*同紙6頁「フィルターバブルという偏り 嫌な情報意識して受容を」(池内了氏の文章)は、インターネット時代に独特のこういう「空気」論、「情報の発信側がかけるフィルターバブル」といういやに難しい概念になってしまっているが、の存在を指摘して、社会に厳重注意を呼び掛けている。いまやこれほど難しい議論を先行させたうえでないと、まちがってもウクライナ側にケチをつける指摘は「まったくこの社会では考えられなくなっている」点に(事例として)警鐘を鳴らしている。例、ロシア側の攻撃にはどのような武器が使われているのだろうか。例、ウクライナ側の「武装反撃」がどのような「戦果」を挙げたのだろうか。(事例として、挙げられているだけだが。)
5月24日付道新朝刊を目にして、「なるほど、新聞というものは、こういう議論ができるのか」と感心した。その6頁に「時評論壇 ウクライナ危機 ロシアを追い込んではならぬ」(中島岳志氏、東京工大教授の文章)が載っている。ここで「歴史現実主義」とでも呼ぶ「立場」が示されている。米国の立場、ロシアの立場、そういう国家的立場にすっかり立つというのではなく、現に流れている歴史を私心なく観察するところから得られる知見を重視しようという考えであろう。さもなければ力と力の対決をとことん進めてゆくという方向にひた走るだけで、外交的解決が働く余地は極小になろうと考えるのである。そもそも米国の立場というのが、純粋無垢などというものではなく、9.11テロ以降に米国が展開した「リベラル覇権主義」の中にあって、例の「イラク戦争からイラク民主化政策」と同根の「米国の価値観を世界に押し売りする」体のものではないかという。そもそもこういう「リベラル覇権主義」批判を行ったのが、日本人の外交有識者、東郷和彦氏で、東郷氏は米国のシカゴ大学教授ミアシャイマー氏という識者を引用しつつこの議論を行っていたと。*要するに、いまわれわれは「リベラル覇権主義」の過剰にもブレーキをかけなければならないと、中島氏は主張している。*ご承知のように、この議論は、同紙1頁に「日米、中国抑止を強化 米『台湾有事に軍事関与』」という大ニュースがのっていることとの関連で、ここに掲載されている。道新今日の紙面は、「歴史現実主義」の下で「米主導の新経済圏発足 IPEF 日韓印など13か国参加」(同紙1頁)という緊急ニュースを扱おうとしている。*今日の道新の社説(同紙7頁)「日米首脳会談 平和と安定へ外交努力を」は、「米国に乗せられすぎるな」と警告している。せっかく首相出身地の広島で、核廃絶の気持ちを新たにする会合を開くのに、平和のための核抑止力重視の意見や、ウクライナの様子をみて台湾有事対応強化の意見やは、ほどほどにし、この米国を盟主とするIPEFなる協定が結局米国のための重要物資確保を主話題にしていることに、「歴史現実主義」的まなざしを捨てるなということだろう。
この厳しい札幌の冬季間。実は当館にもいくつかの小事故があった。これはそのひとつの話。某室天井から水漏れあり。気が付いた時には、某室床が相当に水で濡れていた。早速室内の物を別室に移動したが、この部屋にはかなり本があったので、何冊かの本がひどく水濡れしていた。(事故対応は、水道業者が天井をはがし、そこにあった上水管に措置を施して、水漏れを止めた。)さてこの水濡れした数冊の本のうち、立派な1冊の英書が、びしょびしょ。これを窓際の陽の当たる箇所において自然に乾くに任せた。ERIC HOBSBAWM, THE AGE OF CAPITAL. エリック ホブスボーム、「資本の時代 1848-1875」。5月に入ってようやく本が乾いたが、カビが生えて、たいへんな状態になっている。40年以上前に書かれた英国の歴史家の著書だが、題名に惹かれてこの高価な本を買っていた・よりによつてこの高価な本が水害にあうとは。*私はさいきん電子辞書にある「世界の1000著」のうち、ロビンソンクルーソーの漂流記を選んで少しずつ読んでいた。ときどき辞書を引く程度で何とはなく読み進める。先入観とは違って、自然の中で生存に追われている記述が延々と続き、だいぶ読んだがまだ一向に人影が現れない。*さてホブスボームがカビで失われる前に目を通そうと取り上げた。よめば何となく読み進める。ただしロビンソンクルーソーよりはずっとスローペースだ。冒頭を読みながら驚いた。なんと歴史書とはたいへんなものだ。英国19世紀の30年未満の一時期を扱うのが、「これがどういう時代なのか」を自信をもって語るというだけのことに、難渋せざるを得ないとは。ただホブスボームをしてはっきり言えそうなことは、英国の近代史が市民革命、産業革命という二つの革命に先導されて開幕するが、1850年ごろ(すなわち1848年)の「革命的時期」を境にして、突然「市民革命による先導」は低調になり、「産業革命に先導される進歩」が好調になるという「かたちんば」の様相となる。そしてやがてくる「1873年」は、米国史でいう1929年大恐慌に匹敵する「恐慌」の開始であると。(歴史上、英国の大不況期といわれる。)まー英国で(英国だけではなく多くの西欧諸国で)「市民革命による先導」が低調になった裏腹に、労働者の運動と社会主義の運動が以後の「世界史」になってゆくわけだが。(これはまさに次の時代、20世紀の脈絡だろう。)*つまり、どうして20世紀がくるのかという初期症状がこの1848-1875年に潜在しているということになりそうだ。そのタイトルが「資本」なのか、「資本家」ではないのか。*私のいうこともとりとめない。