インフォメーション
2019-11-09 10:35:00
土曜日・薄曇り・札幌。★昨日(11月9日)道新1頁。「留学生最長週50時間労働」。旭川の日本語学校が、留学生2人に最長週50時間の労働をさせていたという記事。ベトナム留学生だという。週28時間は法定だから、その倍近いというのだ。★ありていは、授業料滞納がちの二人の生徒に、滞納授業料を支払わせるべく、人出不足の市内2企業に働きにだしたが、その労働時間が法定より長すぎたというのだ。★うちでもずっと以前、北15条でアパートを経営していて、当時正規の北大の留学生を入れていたが、そのなかの一人***さんが毎月のように滞納していた。(結局かなり遅く入金する)この人は学費から生活費、アパート代と働いている。小刻みにしょっちゅう働いている印象がある。わたしらも深くは問わない。★さすがに近年は、はたらいてばかりいる北大生というのはいなくなったが、日本語学校となると。★企業内などに無償の日本語学校がつくれないものだろうか。市立とか町立とかでもいい。人手不足の中、ひとのいやがる超苛酷な労働を「最低賃金」で行うのだから、超低価格の家屋も用意したらいいと思う。
2019-11-07 20:01:00
(数)直線上の点の位置。(座標)平面上の点の位置。例題25「数直線上の点の座標を求める」。★「2点間の距離」、「線分ABを5:3に内分する点の座標」、「線分ABを7:11に外分する点の座標」、「線分ABの中点Мの座標」を求めよという。★「2点間の距離」はすぐわかる。「線分ABを5:3に内分する点の座標」も少し考えればわかる。ところが「線分ABを7:11に外分する点の座標」というのが分からない。これはわたしが、「外分」の概念を知らなかったからだ。「外分する点の公式」というのに当てはめて外分点Qの座標が求められる。★ここでわたし変なことを考えた。この外分点は線分ABの左側に来るんだろうか。それとも右側に来るんだろうか。m
2019-11-07 18:26:00
(数)直線上の点の位置。(座標)平面上の点の位置。例題25「数直線上の点の座標を求める」。★「2点間の距離」、「線分ABを5:3に内分する点の座標」、「線分ABを7:11に外分する点の座標」、「線分ABの中点Мの座標」を求めよという。★「2点間の距離」はすぐわかる。「線分ABを5:3に内分する点の座標」も少し考えればわかる。ところが「線分ABを7:11に外分する点の座標」というのが分からない。これはわたしが、「外分」の概念を知らなかったからだ。「外分する点の公式」というのに当てはめて外分点Qの座標が求められる。★ここでわたし変なことを考えた。この外分点は線分ABの左側に来るんだろうか。それとも右側に来るんだろうか。m
2019-11-07 10:56:00
木曜日・曇り・札幌。★どんより曇って冷涼。灯油度数2に引き上げた。これでも例年より冬の来かたは遅い。★オリンピック札幌マラソン。従来コースの新川通が、路端にモノがなく、広々と周囲が見通せるので「テレビ映えしない」という「苦情」が出ているとか。わたしはからずも以前米国をコースト・ツー・コーストで、サンフランシスコからマサチューセッツまでグレーハウント・バスで横断したときのことを思い出した。途中ある個所で、見渡す限りどこまでも伸びる大平原を数人の人々が眺めている光景に出会った。その人々が如何にも平然としているので、バスからその人々の様子を見もながら、「日本人であるわたしだったら、とても平然としてはいられない」と思ったことだ。★人口200万に近い札幌市ではあるが、なにしろ北海道の都市である。「さえぎるところない平原」という北海道に多く見られる景色は、札幌市とて例外ではないのだ。なにしろ札幌ですら熊の出没もあるしね。本州の人の間尺には合わない。それにしても米国から帰った当座、東京の街区も建物もいかにもこせこせと窮屈に感じられるのには参った。今だって東京へ行けばそう感じる。
2019-11-06 18:02:00
水曜日・曇り・札幌。★日中冷涼な気候。車のタイヤ、今日冬タイヤに替えた。2千数百円。★「点と直線」。目の前に、平面があり、そこに「1点」を画したとする。その1点Pの所在を示すには。平面上に直角に交わる直線2本(X軸とY軸)があるものとし、1点Pの、この十字に交わっている2つの直線からの位置(X座標とY座標)で、1点Pの位置を表すことになるんだと。P(Xの値、Yの値)という表し方になるんだと。この平面を座標平面というんだと。★座標平面という設定は、当然に、それに先立って、平面上に一線がある、という想定が必要だろう。数直線と言っている。1点Pがこの数直線上にあって、数直線上のゼロ点(基準点)からdの距離にあるとすれば、P(d)と、1点Pの位置を表すことになる。この場合、距離にも基準を定めておかないと、dの距離というのが具体性を欠く。だから前もって「1」という距離が定められていて、距離dは1のd倍ということになる。また、「見たまま」の観察を前提すれば、数直線のゼロより右方向が+、左方向がマイナスであろう。★遡って、座標軸については、X軸はいま言った数直線とおなじ、Y軸は、ゼロ点より上方がプラス、下方がマイナスということになろう。★そもそも、「見たまま」の観察を主体として、図形の性質を(合同とか、相似とか)学習するのが「幾何」というありよう、それに対して、図形を方程式であらわして、方程式を通じて図形の性質を学習するのが、「解析幾何」というありようであろう。わたしがわかいときには、「解析Ⅰ、Ⅱ」「幾何」という数学科目が高校にあり、幾何を方程式で学ぶ「解析幾何」というありようも存在していた。ところが近年は、「幾何」が姿を消して、かつての「解析幾何」が「数学Ⅱ」の主要部分として登場している。わたし大学1年の時、教養科目の「数学」で、ヒルベルトを習い、往年ギリシャのピタゴラスに発する偉大なるピタゴラス幾何学の意味が、ピタゴラスが当然として前提した公理にヒルベルトが疑問を提したことにより、相対化されることになったと知った。(幾何学自体は知識知能の訓練の上でいまでも素晴らしい力をもっているとは思うが。)それに「みたまま」の観察のもつ意味合いが、人間の思考のありようの中で、独特の性質をもつようになっていることは、数学の素数の登場によっても知られよう。(みたままの現実は認識の絶対の前提とはなりえない。)★文科系の出来の悪い人間ほど、あれやこれやとつまらないことにこだわって、肝心の数学の学習はさっぱり進まないものなのだ。そこへゆくと数学の教師と言うのは、99%理科系の人間だから、生徒の大部分を占める「文科系的気質」が理解できない。だから数学の授業が進むほどに生徒はどんどん脱落してゆくことになる。(文科系はどんなに拙くとも感覚的にわかる文章になっていないと、学習がすすまないのである。)