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金曜日・晴れ・札幌。☆瀬戸の麒麟児藤井七段、とうとう棋聖戦で、渡辺氏を下して棋聖というタイトルを手にした。(そして王位戦というタイトル戦でもすでに木村王位に2連勝している)ある程度想像はされていたが、現実にこういうことになってみれば、遠からぬ日にこの麒麟児がタイトル総なめということが正夢になるかもしれぬ。☆「木村王位、藤井七段に連敗」というウエブ記事(スポニチ7/15配信)中に、2局目に敗れた木村王位が「流れはいいのかと思っていたが、一手間違えると攻め込まれたりする。プレッシャーをかけられていました」と述懐している。将棋というものが元来そういうものではあろうが、私たちがコンピュータ・ソフト相手に戦っている時に、コンピュータ側は負けている場合でも常に「次善」の手を指していて、人間が勝つたとおもったときに、途中僅かのゆるみがあるとまつたく遠慮なくコンピュータ側の手が動き出すという状況を思い浮かべる。「人馬一体」という言葉があるが、この麒麟児は「コンピュータと一体になった指し手」で常に遠慮なく相手に肉薄するのであろう。
木曜日・曇・札幌。☆英文のwritingと言えば、パラグラフ・ライティングを考えるのが大勢であろう。それはそうなのだが、いま日本の英語教育で言われる程度のパラグラフ・ライティングであれば、数週間で要領がつかめるだろうとともに、その程度では書く英文が固くて、ぎこちない。とくに指導する側であれば、このうえ一体どう工夫するのかが、容易には展望できないであろう。☆さすが英米の参考書であれば、はるかに広い構えで指導する本がある。いくつか紹介してみたい。☆最近入手したWritingという本。J.A.W.Hefferman,J.L.Lincoln,J.Atwill共著。Writing A College Handbook,Fifth Edition,W.W.Norton & Co.,2001.800頁ほどの本。米国で出版された本で、大学で実地に学生に英文を書かせている先生方が執筆している。みたところは、単純な文章作法・といってもレトリカル・ライティングを重視しているが・に第1部200頁を割いた後(パラグラフに触れるのはその中のせいぜい30頁、あとはそのパラグラフを構成するレトリックに主力がある)、第2部200頁余で「文」を細かく説明し、第3部50頁ほどで「パンクチュエーション」を説明する。第4部100頁弱は、いわば文を書くための材料集めを説き、第5部100頁弱は、Literatureをまず扱い、次にその他分野を語る。最後の第6部100頁ほどは、まあいってみれば実用的文を扱う。☆多くの場所で学生が書いた英文が例文として扱われている。気のせいか、全体に経済のことが例文としてよく取り上げられている。一体米国の「アカデミック・イングリッシュ」は、2年次以上になると、「法律の文章」とか、「美術批評の文章」とか、学生の専攻に応じて枝分かれしてゆく場合が多いが、この本は、「文学」を前面に出したところがうれしい。☆本の全体は一種の「事典」のように編集されているから、学生が文を書くときに再三参照するよう期待されているわけだ。☆こういうのを読んだら、日本のパラグラフ・ライティング教育も進化するだろう。
水曜日・曇り、25-16度、本州はこのところずっと「入梅」状況なのに、北海道は雨が少ない、気温も上がらない・札幌。☆最近のコロナ禍を思うにつけても、生物学の知識が乏しいことが恨まれる。☆生物学入門のため、次のような本を買った。吉田邦久『好きになる生物学』講談社サイエンティフィック、2004年第9刷。水野丈夫・湯島 誠共著『理解しやすい生物学』文栄堂、2008年。でも、どうもとっかかりが悪い。☆最近、レーヴン・ジョンソン『生物学』上、2011年第7版、培風館。これはおそろしく強引な本で(私にはそうおもえる)、頭から「進化」で生物学を割り切ってしまおうという態度が明瞭。そのためもあって、読みやすい。「進化」がこの本の統一原理だ。ここはよくとも悪くともこの読み方で生物学を理解してみようと思う。☆中央公論社・世界の名著39番、「ダーウィン、人類の起源」1967年、も買った。まっこと、レーヴン・ジョンソン『生物学』とともに読むのにふさわしい本ではなかろうか。
火曜日・曇・札幌。★今日のテレビBS日テレ、1.00「大王世宗」で、「ハングル」創成過程中、民謡の謡いの中に実際に用いられている「音声」を収集するシーンがある。日本の平仮名の場合、「音声」はどうなっていただろうか。「表音文字」である以上、「音声」が話題になっていいはずだ。★いろは48文字を「いろは歌」にまとめて、民衆が覚えやすく編集したのは弘法大師とされる。歌の中に仏教の奥義が読み込まれていて、「いとも尊い」と。「音声」は当時の民衆の音声だろうと言う程度に想定されるだけだ。★知っての通り奈良時代に万葉集が編纂されたとき、万葉集に載った和歌はいずれも「万葉仮名」で書き表されている。漢字というものにはもともと「音声を表す性質」が備わっており、(現代でも中国人は外国語の単語をしかるべき漢字を並べて表す。外国語の音声を、並べた漢字の音声で示す)、万葉集時代の音声は「いろは」の各音に特定の漢字をあてるという仕方で行われた。★私は若い時、大学の一般教養の「国語」で、扇畑忠雄という先生から「万葉集」を教わったが、扇畑先生開講1時間目に国歌大観第1の和歌を講じる際、「こもよ みこもち ふぐしもよ みふぐしもち」の個所で、この「ふぐし」の「ふ」は、当時は後世の「ふ」とは違う発音であった、強いて言うとF音かP音に近い音で「破裂音」であった、という説明は強烈で、当時つよく私の印象に残った。当時図書館でひそかに「古代の音声」を調べたら、奈良時代の発音は何個か、平安朝とは違うことが書いてあった。★万葉仮名はほんの一時の現象で、やがて「漢字の崩し字」が特定してきた形の「ひらがな」というものが「かな」となり、漢文にたいする和文として、漢字に対する「女文字」として、漢字に仮名を混ぜて書くスタイルで、和歌に使われ、平安朝の女流作家たちの日記文学に使われ、「古文」と言えば平安期の文を表すもののように日本人はみな考えるようになった。★我が国の「かなの音声」は、おそらく立派な専門分野の認識であろう。(つまり素人では、ある程度以上は語りえないものであろう。どなたかエキスパートがおられたら、教えを請いたい。)
月曜日・曇・札幌。★当家のサクランボは、時期が終わった。いま始まったのは、夏大根の収穫。今年は植える本数を半分に減らし、減らした分を、ほうれん草を植えた。ほうれん草は取れ続けている。胡瓜も出来が良く、いくらでも食べられる状態。★昨日明治生命のいつも来ていたセールスが来訪したので、「コロナ禍の収束するまで、新規の契約はする気がないので、セールス不要」と申し上げた。今日テレビで、日生がセールス活動を再開すると報じていたので、保険会社はいままで「遠慮」していた訪問活動を再開すると一斉に決めたのかな。★「自粛期間中セールスが戸別訪問してくることは極めて少なくなった」ので「これは自粛というものの隠れた良さ」だと思っていた。自粛期間中、事業活動は、印刷物の送付と電話による語らいに限られるが、電話での話の仕方が実に要点をついた、機敏なものになっていた。これも「自粛というものの隠れた良さ」だろう。以前は漫然と行っていた話や、ただしつこければよいような語り口は、人が受け付けないので消えていった。★再開する「訪問セールス」とかも、以前通り漫然とやられたり、ただしつこければいいとゆう具合にやられるのなら、まったく逆効果だろうよ。まず電話してきなさいよ、それで要点を尽くしてごらんなさい。客が「それなら会ってみよう」というセールスをなさるがよい。