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月曜日・曇、予想気温24-16度・札幌。★道新1頁「『はまなす』彩る道内旅行」。JR北海道が、久々に、「はまなす」編成(五両)の観光列車を企画している由。10月中旬にお目見えするそうだ。わたしなど、末世、食事にせよ観光にせよ、各段のものを求めたことがなかったが、それというのも地味な生活をして先々の経済的不安を招くまいとしているから。おそらく道内数十万の人々が私と同様であろう。しかしなにか「将来の楽しみ」を持っていたい。この「はまなす」編成の観光列車の1号車の窓向きのカウンター席10席の写真を眺めながら、「いつの日か、こういう席に乗ってみたい」と空想する。もうひとつ、「ラベンダー」編成(5両)というのも企画中だそうで、こちらは来年4月から札幌発富良野行きに予定するそうだ。☆「北斗星」に乗る希望が失われていたので、今度は愉しみだ。★道新1頁「総裁選菅氏有力に」。ポスト安倍が菅氏に決まるかもしれないという記事。自民党派閥の人数の寄せ集めが成りそうで、この「実務的」人物が本命となるとか。今回は地方党員票は軽くする選抜方針だったとか。菅氏は、コロナ禍対策を第1の政策課題と、この点まつとうな提示。それにしてもこの「総裁選出過程」は、こういっては悪いかもしれないが、まるで「やくざの跡目相続」みたいだ。☆民主党菅氏は、降ってわいた東日本震災が大きな引っ掛かりとなって、半年後に仮住宅建設の公約をやつとこ果たして退陣した。自民党安倍氏は、アベノマスクと国民1人10万円の見舞金配布の公約をすつかり果たしたところで身を引くことになったのか。
土曜日・曇、気温予想31-21度・札幌。☆やはり例年通り、8月20日すぎの一週間ないし10日間が、当家としては一番暑い季節だった。窓を開け放っていても、ややもすれば屋内の空気が淀み、扇風機は回していても耐え難い暑気が籠る。今日初めて曇になって、朝方の暑気が抑えられ、人間が生活できる気温となった(なんと当家は冷房はしないんですよ)。自然の冷気と札幌の冷たくおいしい水道水。☆安倍首相が昨日、「病気に耐えがたい」ので辞意を表明した。☆安倍氏の施策は良くも悪くも将棋でいうとすべて高位の空中にあやしく布陣したままなので(地味で実行力のある手はほとんどなかった)、この後が大変だ。この責任を政治的に誰が取るかって誰もとらない・取りようがない・国民各位がこの後の責任を取るしかないのだ。☆ときあたかも「同盟国」米国では、BLMの再高揚のもと、断固武力制圧という方針のトランプ氏と、トランプ陣営に言わせると「最左翼の回し者」(国民的融和を図る)バイデン氏という対決の構図の大統領選挙戦。この結果の政治責任は米国民各位がとるしかない。☆アメリカ、フアーストでも、日本フアーストでもあるまい、国民フアーストであろうが。☆本日午後2時。外気温が急に低くなり、冷涼の空気が部屋に入ってくる。この空気にわたしは、早くも「秋」を感じた。北海道は10月中旬に早くもストーブに火を入れる家庭が出てくる。秋なんて、9月と10月半月しかない。11月は早くも冬支度。12月は降雪がある。私たちが道内の温泉にでも行っておくのは、9-10月だな。日米の政局や日本の政権がどうなるか知らないが、北海道の私たちは、冬支度さ。
水曜日・晴れ、予想気温31-22度・札幌。☆本州連日の高い気温で、北海道の場合の最高気温と比べて、約10度の温度差がある。(道東はさらに冷涼)日本列島の気温は、本州を熱帯化し、北海道を温帯として維持するという方向に年を追うごとに定着しているのではなかろうか。一層のこと、「夏季6月から9月まで」本州の老齢者と学童未満の幼児(及び長期療養中の病人)は北海道に「退避生活」させるという国民的プロジェクトを考える時期ではないだろうか。北海道は夏季の台風も大雨も少なく、梅雨もない。☆戦時中から戦後にかけて、「北海道は日本の食糧基地」と言われた。北海道は全国一の酪農地帯であることを誇り、日本国民への牛乳および乳製品提供は、北海道が本命である。今日、米作の北限は北海道に延びていて、米飯の提供に困ることはなかろう。魚は、東西南北がすべて海という環境。野菜は日用品が豊富に提供される。現今のコロナ禍のもと、閉鎖的国民経済で数年間生きるほかないという宿命に襲われても、立派に自活できる地理であろう。
火曜日・曇、気温は28度から19度までという予報・札幌。☆盆過ぎの気候は、当分、日中は暑く、夜間急冷ということになろう。☆昨日のテレビも今日の新聞も、「リーマンショック以上のショック」で、特に個人消費の急落が大きいという。「回復」には4年はかかろうかと。さしあたり今年の年末に、国内で、コロナ禍が相当に抑制されているか、それともぶり返しを迎えているかで、目先の明暗が分かれよう。「抑制」されていないようでは、来夏のオリンピックなど、望めないものね。もっとも、世界のコロナ情勢は、とても見通せない。☆札幌市民は市内の施設を訪れることで満足したと、それで結構。それすら行けない人も多かった。☆当館アイランドコーポは、この時期から短期居住を開始して、そのまま冬季間も札幌に職を得てとどまり、通年居住にいたるという前例が多い。冬季居住も含めて通年居住というのは、北海道内からの方々にほぼ限られる。当館は1ケ月2万円(部屋代月額1万5000円、共益費2500円、水道代2500円、月額合計2万円)という料金で住んでいただけるので、安心して長期居住できるのだ。
8月15日、終戦記念75周年とか。テレビで終戦の日特集を見ていて、ふと、75年前の当日の自分を思い出した。☆当時のうちは、郡役所跡の坂の正面にあり、班長さんの家はちょうど坂を下り切ったところにあって、うちの向かいだった。☆私はふと自家の外に出て、向かいの班長さんの(ブリキやさんといっていたが、当時ブリキ業などしていない)家を見ると、班長さんの家の外に、家の中に入りきらない数人の人があふれていて、天皇陛下の終戦の放送を聴いていた。暑い日であった。なにやらくぐもったようなラジオの音声が聞こえ、立っている人々はときどきすすり泣きしながら放送を聴いていた。私は数分でその場を離れ家の中に戻ったので、それ以上の記憶はない。☆その日が大変に暑い日だったことは覚えている。母や祖父に見たことを知らせたが、「そうか」というばかりだった。それにしてもこの放送が、この土岐津町高山上町(たかやまかみまち)で戦中と戦後を分ける境になった。ラジオがあるのは限られた家で、うちにはもちろんない。それでも当時日中でもラジオをつけっぱなしにしているところが多いので、国民学校の帰校時など路上でどこかの家のラジオが鳴っているのが聞こえたものである。「空襲警報発令」とか「空襲警報解除」とかいう知らせを路上にいる人が聞かなければならないので、それは必須の習慣だった。☆私がこの放送の様子を目にした時の人々は全て私よりはるかに年長であり、この地区にそうたくさん子供がいたわけではない。してみるとこの高山上町の放送の思い出は、もう私の脳裏のなかにしかないのかもしれない。☆戦中は比較的に平穏に過ぎ、驚天動地の様々の出来事は終戦後にうわっと現れた。「出征軍人の家」という札が貼ってあった当家は、戦後まもなくこの土地を離れることになった。私の父は昭和12年(1937年)「シナ事変」の上海上陸作戦で、ダイジョウチンとかいうところで戦傷を受けた。この作戦で岐阜第68連隊が非常な打撃を受け、土岐津町から召集された壮丁が大量に戦死した。(後年私はこのあと同じ個所に入った長野県の連隊の人から話を聞く機会があった。)この大量戦死は以後の土岐津町の招集に大変な不都合を来し、この戦いに生き残った父はその後昭和20年まで何度も招集されることになった。それでも無事に帰って戦後を迎えることができたのは、運のよいことであった。