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2022-11-05 12:14:00
「花」、総画七、1年生、くさかんむり、部首内で四画、読み、カ、はな、 部首の意味、草の生えている様子、草の種類や状態を表す漢字。しかし例示してみると、草とはまつたく関係なさそうな文字が大量に加わる。例示、芋芝花芸芳苦英芽若茂茎苗茶草荘荒荷華菜著菊菌菓落葉葬蒸蓄蔵薬薄薦薪薫藩など。 字の成り立ち。草冠は「草」を表し、脚の「化」は、「姿が変わる」ことを表す。 この「花」という文字は、「ヒ」のところで、①右から入る。②突き出ない。③ここを先に書く。ことに注意しよう。 熟語。「花嫁」「花婿」「花冠」「花鳥風月」「花曇り」「花言葉」「花祭り」「花道」「花文字」を注目する。 「花嫁」は、はなよめ。「盛りで美しい」。なるほど。では「花婿」はなむこは、「お婿さんを讃えている。」このほうも「盛りで美しい」けどね。「花冠」かかん、「一つの花の花びらの集まり」。「花鳥風月」かちょうふうげつ、「自然の美しい景色」「風流」。まさに東洋的美観だね。「花曇り」はなぐもり、「桜の咲く頃、空がどんより曇ること」。つまり、特定の花曇りを表すのだ。「花言葉」はなことば、「いろいろな花に、その花に合うような意味を持たせた言い方」。例、パラ(愛情)、ユリ(純潔)、クローバー(幸福)。「花祭り」はなまつり、「四月八日釈迦誕生日。釈迦の像に甘茶をかける。」「花道」はなみち、「劇場で客席の間にあって、役者が舞台に出入りする細道。」「花文字」はなもじ、「ローマ字などの頭文字。」以上小学館『学習漢字辞典』昭和56年、を参考にした。
2022-11-04 21:41:00
私は、日本の古文が、よくわかったと思ったことがない。学習しても、どうも服の上から体をかいているような感じで、どうもぴったりと来ない。はやく言えば、よそよそしく感じる。数日前、大野 晋『日本語の年輪』新潮文庫、平成11年、を読んだ。最初はこの本の後半部の「日本語の歴史」を読んでいたが、やがて前半部の「美、祈りと願い、尊敬の論理等々」を古代人がどう表現してきたかという実例を読んだ。読みながら、たいへん面白くは感じた。しかしはっきり言って、「それが私の関心事か、それが日本語の問題か」というところがピンとこない。ところで、「若い人たち」の編の中の「おしゃれ」の項で、「されこうべ」の事例を、「雨風に打たれて打ち捨てられた人の首をされこうべという」(150頁)の箇所で、「おや」と思った。この例なら知っている。私は東北の田舎で成長した。農村地帯である。普段子供の世界ではむろん東北弁しか使わない。「だれだれはこういうことを『され忘れてけつかった』」と使った。この「され」は大野先生が指摘される「すつかり」という意味である。私はたと思うには、私は言葉というものは「標準語」だけを問題にするものかと思いこんでいた。私は子供のころ「標準語」などめつたに話したことはない。普段は東北弁だ。それもおおらかに語る。私の母が昔笑って聞かせてくれた。ある日の学校参観日、国語の授業で、先生は「鯛」を示して、「何ですか」と聞いたら、生徒は一斉に「チツヅ」(東北弁で吉次のこと)と答えたと。生徒は鯛など食ったことがないのだ。この「チツヅ」こそむしろヤマトコトバだ。方言の口語の中にこそ、ヤマトコトバが躍動しているのかもしれない。標準語でのみ言語を考えるというのは、当たらないな。
2022-11-04 21:11:00
英語のいわゆる「やまとことば」と、英語全体との関係は、たいへん明瞭である。古代以来ヨーロッパ大陸からいろいろな勢力が英国にやってきて、それも支配者としてやってきて、従来の英国民と混血して現在の英国民となった。その過程で、ヨーロッパ大陸から入ってきた言語は、論理的で、長い綴りの語が多く、それらの代表は「ラテン語」であろう。(知っての通り、ギリシャ語、ラテン語は、小欧州の多くの民族の言語に巨大な影響をもたらした「共通的部分」である。なにせキリスト教がこの世界を風靡し、ラテン語は聖なる言語として君臨した。欧米で古典教育といえば、ギリシャ語・ラテン語による教育である。どことなくアジアの古漢文世界と通じる気味がある。)近代でも、ラテン語には科学の用語としての地位があり、法律の文書の正式用語でもあった。さて、英国に戻ると、いわゆる「英国のやまとことば」は、感覚的感情的情緒的な語が多く、綴りは短い。どうしても多義的になる。こういう短い単語ばかりでまくしたてられると、外国人にはなにがなにやらさっぱりわからない。「ほわっちゅーあいど」と走り去る車からどなられると、あぜんとするしかないが、「なにみてけつかる」という程度の意味か。eyeという徹底して身近で、短い単語を感情的に使っている。まあこんな具合。
2022-11-04 20:52:00
どの国、どの民族でも、言葉にかかわる歴史的構造がある。こういう特殊構造をその国の知識階級は知っているが、外国人がある国の言葉を観察するときには、容易にはうかがい知ることができないものである。日本語には、古代以来のやまとことばという言葉の層の存在が知られているが、例えば英語の場合にも、英語を学んでゆくうちに、この「英語のやまとことば」とでもいう層の存在に触れることになる。そして、その「英語のやまとことば」と「現代英語」のかかわり方の問題。ここで「英語のやまとことば」という表現をとったのは、それを指す適当な呼称がなかなか見つからないからである。たとえばイギリス英語について、なにが「イギリス英語のやまとことば」かといえば、ヨーロッパ大陸の人間が大挙英国にやつてくる(たいていが支配者としてやつてくる)以前の「土着」の英国民というと、「アングロ族」「サクソン族」とでもいうしかない。かといって「アングロ語」「サクソン語」そのものが「英国のやまとことば」かというと、なかなかそうとも言えない。実は私は米国で英語を学習している際に、英語教師からそういう「感覚」を伝えられた。その人は、「つづり字5字とそれ以内の長さのつづり字の単語を重視するように」と「つづり字の長さ」で伝えてきた。私はこれをさしあたりイデオムの動詞側ととらえ、次いでこの「短い単語」をもうすこし広く考えるようになっていった。こういう感覚の英語教育は、日本ではいままであまりやらなかったのではなかろうか。
2022-11-04 20:09:00
漢和辞典にもかなり特徴が違うものがあるので、ここに書くことが別に標準と主張しているわけではない。ただ、先ほど来の「部首をマークする」ことが大事だという関りで、言うが、もう一冊、示しておきたい。三省堂『全訳漢辞海』2006年である。この辞典は、本書は「古漢語を読解するために、漢字を通じて学習する辞典である」としている。先に挙げた『漢字典』と一脈通じるものがある。だから、この書も、参考書と考えたい。現代中国音にも通じる音を示している。実は私、若い時、歴史的中国を論ずる書物の中で、文章中あらわれる事物に発音を示しておきたかったので、手元の辞典により、ウェード式の発音を併記した。戦中戦前ならともかく、戦後の著述にこんなことをした者は、まずおるまい。その心は、書いたことを日本人だけではなく、中国民族の人にも読んで知ってもらいたかった。私らの書くもの、考えること、自然にアジア的広がりを持つていることが多い。/いわんや、古漢語とでもいう文明的世界は、中国、中国周辺国、日本、朝鮮と、かなりよく分かった広がりを持っている。現代になれば、それぞれの民族が華僑のような大量の海外人口を持っている。いつの日か、この広がりが、お互いがよりかかる場になるやもしれない。また、旺文社が『漢字典』より以前に発行していた旺文社『漢和辞典』1988年というのがある。これも過去に入手して私蔵印が押してある。方針はやや違っても、これも便利な辞典なので愛用している。この『旺文社漢和辞典』は、装丁や紙質や大きさや厚さが、大変取り扱いやすいので、感心して愛用している。
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