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2022-11-04 21:41:00
私は、日本の古文が、よくわかったと思ったことがない。学習しても、どうも服の上から体をかいているような感じで、どうもぴったりと来ない。はやく言えば、よそよそしく感じる。数日前、大野 晋『日本語の年輪』新潮文庫、平成11年、を読んだ。最初はこの本の後半部の「日本語の歴史」を読んでいたが、やがて前半部の「美、祈りと願い、尊敬の論理等々」を古代人がどう表現してきたかという実例を読んだ。読みながら、たいへん面白くは感じた。しかしはっきり言って、「それが私の関心事か、それが日本語の問題か」というところがピンとこない。ところで、「若い人たち」の編の中の「おしゃれ」の項で、「されこうべ」の事例を、「雨風に打たれて打ち捨てられた人の首をされこうべという」(150頁)の箇所で、「おや」と思った。この例なら知っている。私は東北の田舎で成長した。農村地帯である。普段子供の世界ではむろん東北弁しか使わない。「だれだれはこういうことを『され忘れてけつかった』」と使った。この「され」は大野先生が指摘される「すつかり」という意味である。私はたと思うには、私は言葉というものは「標準語」だけを問題にするものかと思いこんでいた。私は子供のころ「標準語」などめつたに話したことはない。普段は東北弁だ。それもおおらかに語る。私の母が昔笑って聞かせてくれた。ある日の学校参観日、国語の授業で、先生は「鯛」を示して、「何ですか」と聞いたら、生徒は一斉に「チツヅ」(東北弁で吉次のこと)と答えたと。生徒は鯛など食ったことがないのだ。この「チツヅ」こそむしろヤマトコトバだ。方言の口語の中にこそ、ヤマトコトバが躍動しているのかもしれない。標準語でのみ言語を考えるというのは、当たらないな。