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2018-11-21 09:42:00
2018年11月21日・水曜日・雪・札幌。★とうとう数センチの積雪となった。★昨日も今日も、日産会長カールス・ゴーンの「不正」についての報道で、新聞も、テレビも、ネットも、大忙しだ。この「不正」と、「不正」摘出の仕方と、こういったことの背景に横たわる「哲学」「イデオロギー」。確かに並みの「犯罪」とは違う。
2018-11-19 23:20:00
なぜ司馬さんが、日本仏教のありよう、特に葬式に関するありよう、を「迷信」と極言しているかを、簡単にまとめておく。この小文は、文芸春秋『司馬遼太郎の世界』1996年、314-336頁に載っている。★そもそも仏教は、釈迦の教えから、インド自体でも変容があり、中国に渡来して中国文化に受容されて変容し、さらに日本に渡ってきて日本でも変容している。★釈迦の頃は、「遺骨に魂が宿っているから、遺骨を拾う」という発想はない。お釈迦さんの墓がどこにあるという発想もない。死ねば火葬されるのが当然のこととされていたろうと。お寺というものもない。「解脱」とか、「空」とかいう思考に、そんなものはあり得ない。死ということについてさえ、釈迦は問われても明言で答えるのを避けた。答えがないということでもなかろうが、しかし言葉で言えることでもない。仏と言っても、形がない。(しかし後年インドで仏を形にするありようが出てきた。)★仏教が中国に伝来すると、形のあるもの(仏像)として受容され、寺という建築物を伴い、国家仏教となって、「効き目」、「功徳」を求めるようになる。★日本に入ってきた仏教は、当初は葬式を伴っていなかったが、やがて「葬式」が始まり、形式として固定するようになって来た。しかしそのほとんどが、本来の仏教とは何のゆかりもないもので、いうなれば「迷信」。僧の戒など、中国から伝わってきたものだが、どこがありがたいのか。「戒名」とは、死んで仏になるのは要は「僧になる」ことだから、「僧としての中国名」をつける・それが「戒名」だろうと。★こういう具合にみてくると、葬式のありようをなにやら固定的な、動かしがたい儀式のように言うのは、どうも大きなペテンにかかっているようなものである。しかもそれを商業主義でごり押しするのは、何おかいわんやだ。だいたいこういう趣旨のことを言っておられる。★門徒として粗末な墓にひっそり収めてほしいと思う心に、つまらない御託を強制されるのなら、当代を以って佛徒をやめようと、わたしもおもいます。★わたしの幼時、わたしの祖母は、寝しなにかならずご詠歌をうたっておりました。祖母の時代には流行歌がなくて、あるいは流行歌代わりだったのかもしれない。毎晩静かにご詠歌をうたいながら死期を待っていたのでしょう。わたしも司馬さん同様、もともと門徒の家です。私の友人に、尊い山にまで登って修行してきた人がいる。「印中日と渡来したことによる仏教の文化的変遷」が、彼の研究テーマだった。しかし身が僧侶で、寺の住職であるという「葬式の主催者」の立場と、それがどうかかわるか。檀家側が一生懸命考えているのに、僧侶のほうは何を考えるのか。とっくり伺いたいと思います。いいかげんなお答えなら、檀家をやめようとおもいますよ。
2018-11-19 12:11:00
2018年11月19日・月曜日・曇・札幌。今日は市のごみ処理の、月一回の雑草木処理の日で、ごみステーションにはすでに膨大な草木が規定通り(木は50センチの長さに切って捨てる)捨ててあった。当家が追加したのは全体の5分の1ほど。ほんとこういう日があって助かる。★「中国の飲食店 スマホで注文、決済も。進む無人化。人件費高騰や人手不足背景。」(道新2頁)。今はたとえ中国だけのことであっても、早晩この趨勢は日本に及んで、かなり一般化することであろう。レジでの支払いがスマホを使って行われるのは、日本でも特に都会地で、かなり行われるようになった。この記事が特にリポートしているのは、代金支払いだけでなくて、料理の注文から配膳までもスマホで行われるケースである。記述を読むとたしかにこれなら十分に可能と実感できる。やがて日本のコンビニの今の姿は「変わるだろうな」と直感。★注文と支払いが異国人間で行われる場合には、このようなスマホ使用が便利なので、観光日本はまずこの面でのスマホ使用が拡大するだろうと直感。★「米中の亀裂収拾不能 エイペック首脳宣言断念」(道新1頁、2頁)。アジア太平洋地域の国際的団結も、国際的協調も、最近激化した米中経済戦争のためについに機能不全となってしまった。これは世界史的には1930年代の先進諸国「自国第一主義」のぶつかり合いで、世界的経済停滞を招き、第二次世界大戦への道を歩んだ事態の記憶とはっきりと重なる。冗談じゃないよ、トランプ氏。いま米中が大胆に譲りあわないと君たちの「池」が蒸発してしまうよ。
2018-11-19 12:06:00
司馬遼太郎さんの「終活」といっても、すでに故人であり、世間一般には「ちゃんと葬式して亡くなられた方」である。しかしこの方が書き残された「小文」を見ると、この方の心の置き所の大きさには驚嘆する思いがあり、この「小文」自体の執筆こそこの方のほんとうの終活ではなかったかと思われる。★文芸春秋編『司馬遼太郎の世界』、1996年。司馬さんの死後、「鎮魂」のために編まれた文集。その第5編「雑談・隣の土々(くにぐに)」の中に、「日本仏教と迷信産業」(『文芸春秋』昭和37年4月号に司馬さんが載せた小文)を再録しています。(314-336頁)一言で言うと、日本の葬式仏教をそれ自体は迷信と見、しかもその迷信が商業主義に毒されているものとみるわけです。★司馬さんの家は門徒で、明らかに司馬さんその人は門徒であることに非常な愛着心を持っている。「葬式仏教」だからなにかほかの宗教、例えばキリスト教がいいとか、そういう話ではない。しかし「檀家」のほうが葬式にいろいろの思い寄りを持っているのに、「住職」の方にはそういう思い寄りはまつたく通じない。この辺が、この小文成立のきっかけではなかったのかと思います。★司馬さんは御父上の墓を建てようというとき、住職に「上等な墓」をすすめられて、「普通の墓でいい」とした。「あなた、日本人のお墓というのは、われわれ庶民が造り始めたのは江戸中期の元禄・享保のころからです。それ以前は、普通の庶民はお墓がほとんどなかった。相当な身分のお侍さんでも、墓というのは、脛から下ぐらいの高さのものだった。墓を競い合ったり、墓相だとか何とか言い合うのは、ごく最近の、商業主義の者であって、仏教とも、浄土真宗とも、親鸞とも何の関係もないのですと言ったら、(住職は)非常に怪訝な顔をしていた。」(324-325頁)檀家が葬式について非常な思い入れをしているのに、「怪訝な顔」をしているだけで、それ以上の対応を住職がしない。
2018-11-18 10:33:00
2018年11月18日・日曜日・薄曇り・札幌。★寒くなってきたが、まだ札幌に初雪はない。★「日高門別--様似廃止容認、JR日高線、地元7町長合意」(道新1頁)。これからの北海道が観光立国の度合いを深めてゆくだろうことを考えると、風景に富み、馬産地としての歴史が深いこの日高本線。海外旅行客が好んで鉄道線をたどって来道するスポットだと思う。とりわけシベリア方面の大陸から来道する将来の観光客の好みに合いそうだ。いま残念な判断。★「体験移住ホテル代わり、効果に疑問、北広島市など事業撤退」(道新1頁)。北広島市の場合、夏季1か月6万6千円で「お試し移住」として貸していたが、実際に移住する人が極めて少なく、たいていが「安上がりの観光」のようだから、もうやめようという。富良野市は昨年でやめたという。(もっとも、上士幌町、東川町、浦河町などは、移住の効果がかなり案がっていたという。)★これって、少し近視眼ではないか。移住でなくとも、たとえばブロガーを3か月入れて、観光大使のように扱い、その市町村の「魅力」を日夜ブログに書いてもらったらどうか。むろん書き方はブロガーの自由な目にゆだねる。(中国地方の米子市なども住宅を安く使わせている。移住以外のことももっと考えたらどうか。)この「ちょつと暮らし」、昨年は道内で次の10市町村が利用者が多かったという。釧路市、上士幌町、東川町、新日高町、標津町、浦河町、紋別市、栗山町、厚沢部町、根室市。★本の森「永江朗著、四苦八苦の哲学、生老病死を考える。根本的な苦悩、巧みに言語化」(道新11頁)。「生あるがゆえに死あり」。人類永遠の悩みとその解決を、仏教の教義が巧みに言語化して私どもに示してきたのは、よくしられているところ。貴重な示唆であるとは思う。しかしわたし、最近、司馬遼太郎氏の小編を読んで、大いに悟るところがあった。
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