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2018-11-19 12:06:00
司馬遼太郎さんの「終活」といっても、すでに故人であり、世間一般には「ちゃんと葬式して亡くなられた方」である。しかしこの方が書き残された「小文」を見ると、この方の心の置き所の大きさには驚嘆する思いがあり、この「小文」自体の執筆こそこの方のほんとうの終活ではなかったかと思われる。★文芸春秋編『司馬遼太郎の世界』、1996年。司馬さんの死後、「鎮魂」のために編まれた文集。その第5編「雑談・隣の土々(くにぐに)」の中に、「日本仏教と迷信産業」(『文芸春秋』昭和37年4月号に司馬さんが載せた小文)を再録しています。(314-336頁)一言で言うと、日本の葬式仏教をそれ自体は迷信と見、しかもその迷信が商業主義に毒されているものとみるわけです。★司馬さんの家は門徒で、明らかに司馬さんその人は門徒であることに非常な愛着心を持っている。「葬式仏教」だからなにかほかの宗教、例えばキリスト教がいいとか、そういう話ではない。しかし「檀家」のほうが葬式にいろいろの思い寄りを持っているのに、「住職」の方にはそういう思い寄りはまつたく通じない。この辺が、この小文成立のきっかけではなかったのかと思います。★司馬さんは御父上の墓を建てようというとき、住職に「上等な墓」をすすめられて、「普通の墓でいい」とした。「あなた、日本人のお墓というのは、われわれ庶民が造り始めたのは江戸中期の元禄・享保のころからです。それ以前は、普通の庶民はお墓がほとんどなかった。相当な身分のお侍さんでも、墓というのは、脛から下ぐらいの高さのものだった。墓を競い合ったり、墓相だとか何とか言い合うのは、ごく最近の、商業主義の者であって、仏教とも、浄土真宗とも、親鸞とも何の関係もないのですと言ったら、(住職は)非常に怪訝な顔をしていた。」(324-325頁)檀家が葬式について非常な思い入れをしているのに、「怪訝な顔」をしているだけで、それ以上の対応を住職がしない。