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2016年3月8日、火曜日、午後11時、札幌の天候。定温、曇り、風なし、雨も雪もない。
マイナス金利の天気予報。ネットを読んでいても、あるいは最近身近で会って話をしている人々の様子からも、人々が追い詰められてどこかへ走ろうとする気配を感じる。
それが妥当か、否か、ということは、今は問わない。
ただ、同時に、内心こうも思っている。今のこの経済社会は、なにかのきっかけで突然崩壊するようなことがあってもおかしくない。
現社会の中心になっている存在は、法人企業である。この法人企業の意義やありようやを今よく吟味しておくことは、崩壊した経済社会を新たに作り直す場合に、こよなく参考になるであろう。
いったい普通であれば、社会の崩壊を招きそうな事態を、心ある指導者は避けるものである。それがそういう危機を避けないのは、ことほど左様に何事かに追われているのであろう。かつて日本人ほど銀行を大切にしてきた国民はなかった。ご存知だろうか。かつて戦後の大インフレ期に、インフレ率を上回る民衆の銀行預金の伸びがあって、これが戦後日本のあの高度成長を支えたのだ。民衆の信じるものをなにか目先のつまらない手柄と引き換えに失わせるとは、およそ信じられない話。いまへたマゴするとゆうちょがつぶれてしまうが、いったいなにをやっているんだろうね。
いま読んでいる本から引用する。「20世紀初めに成立した合衆国の巨大法人企業は、チャンドラー・ジュニアによれば、生産過程だけでなく、製品の販売、原料の仕入れ過程をも、したがって企業活動の前提となる市場の一部をも、当該企業の一事業部門として内部化した企業となっていた」うんぬん。楠井敏郎『法人資本主義の成立』日本経済評論社、1994年、18ページ。昨日だったか、「外部市場の内部化」という法人資本のぶっきらぼうなありようを示したが、この引用箇所はそれがなまのままでているところが面白い。
なに、こんな単純なだけのものではありませんぞ。
2016年3月7日、月曜日、午後3時。札幌の天候。たいへんな好天気。温度が高く、風もない。うちのベランダの雪は冬期中今年は一回も除雪したことがなかったが、すっかり解けてしまいました。春を実感します。しかし実際はなかなか本当の春にはならないでしょう。
マイナス金利の天気予報。法人企業が存在する経済社会の構造について、書いてきました。
ここで(資本主義の)商業世界とは、法人企業が関わる商業の世界で、法人企業どうしが取引する商品Cの世界、法人企業が生活物資を国民に販売する商品Bの世界、法人企業が雇用したり、土地を借りたりする商品Aの世界に分かれますが、なんといっても中心になるのが商品Cのいわゆる「卸売市場」でしょう。
この「卸売市場」を中心として、商品Bの市場、商品Aの市場も含めて、この資本主義の商業世界は、経済学ではどういう概念規定で行なわれるか。なにしろ経済学も経済学者もいろいろありますので、一概には言えないのかもしれない。しかし、ずばりと言って、もっとも有名なのがマルクス『資本論』第2巻全体を充てて述べられている議論です。
簡単に言うと、こういうことのようです。商業と見え、商業世界と見えるのは、実はすっかり資本の回転の姿である。だから商業と言うのは、すっかり資本の回転の運動である。(ここでは資本とは産業資本です)資本の運動が自由に行なわれる以上、個別資本の回転の相互の組み合わせは、いつもなだらかに組み合うわけではない。社会的な個別資本の回転の組み合わせが大きく編成されて資本の循環という現象になるが、この資本循環こそが景気変動の原因になる、と。
このように商業世界で繋がっている企業どうしの関係について、アダム・スミス『国富論』の意見を聞きましょう。アダム・スミスは、資本主義の引き起こした生産力の発展を、基本的に「分業に根ざすもの」としているので有名ですが、(『国富論』は冒頭から分業の議論で説き起こしています)「工場内分業(作業場内分業)」、「社会的分業」の双方に分業の効果と利益を認めています。
19世紀までの資本主義は、基本的に個人資本家が作っている資本主義ですから、お互いが誰でも利用できる社会的分業にも非常な力点が置かれていました。それに対して今日の法人企業の社会では、以前と比べるとより多くの社会的分業が、個別的企業内分業に置き換えられています。このような分業の社会的体制の変化によって、社会全体の生産性はより高まったのか、あるいはかえって低くなったのか、それとも相殺されて変わりがないのか、断は下しにくいのですが、ただいえることは、以前の時代よりも生産力の高まりの効果は、企業の内部により多く吸い込まれるようになりました。
なにしろいまこのように語っているのは、たいへん大雑把な議論なので、これでにわかにどうこうという結論はでません。
ただ、「おや、そんなことがあるのか」位に思っていただきたい。
21016年3月6日、日曜日、午後3時、札幌の天候。気温は確かにあがった。雨も雪もまったく降っていない。だから今のところ、大水の心配はまったくない。
日銀マイナス金利の天気予報。号外。もっとも、このほうが「マイナス金利の天気予報」にぴったりなのかもしれない。
今日インターネットを読んでいましたら、「2‐3万円ぐらいの金庫がバカ売れしている」という記事かありました。
買ってゆくのは年配の人が多いらしい。「銀行預金の金利低下の影響だろう」、「マイナンバーで預金の存在をひとに知られたくないということだろう」、のような推測が載っていました。「合理的推測」なら、もっとできる。
1. 突然の口座閉鎖を恐れる。 2. 国債不換を恐れて国債から手を引く。 こういうのは、国家に対する不信の現れです。
3. 保険に入って保険金を払い込んでしまったらどうだろう。
4. 前払い金を払い込んで、何か、予約してしまったらどうだろう。 これは「マイナス金利」の語感におびえて、適当に使おうという考え。
5. 土地・家屋を買ったらどうだろう。 6. 骨董品か美術品を買ったらどうだろう。これも、適当に使おうという考え。
7. 海外預金してしまおうか。これは香港かシンガポールの銀行に行ってドル預金しようかというような考えです。
8. いっそ貸し金業を始めようか。どんな時代にも、いますぐ金を借りたいという人間はいるものです。もっとも、それが合法的な範囲か。貸した金がこげつくというときにはどうなるのか。
いままでだって貯金金利はあきれるほどやすかったのです。国民が安んじて貯金ぐらいできるようにしておいたらいいのに。
2016年3月6日、日曜日、午前0時、札幌の天候。3月5日は、一日、日照があり、穏やかな天候だった。今日は午後から雨と予報されており、また、気温が急に高くなって本州並みになると予報されている。そうなると気になるのは、大水の危険がないかということだ。なにしろ各家庭が家の脇に大きな雪山を持っているからである。この雪山が急に溶け出すということになれば。また、下水の排水がうまく行かないということが起これば。大惨事は免れない。
マイナス金利の天気予報。法人企業が存在する経済社会の構造を考えてみようとした。架空の話ではない。現在の私たちの経済社会の組み立ての性質を、観察しようとしているのである。
この「お知らせ」欄がまるでブログ同然の視聴率を示しているので、驚いている。
こういうことをこの経済構造に関連して、書いておきたい。1. この「法人企業」の内容は何か。2. なぜこの「法人企業」が経済社会の中心になるのか。3. 商業世界の性質。4. それ以外に何が「流通」するのか。5. この世が「あの世」化しようとしている経済社会。
この「法人企業」の内容。ずばり、今の日本であれば、「東証第1部上場企業」を中心とする企業社会と考えてよかろう。そうすれば「第2問、なぜこの法人企業が経済社会の中心なのか」は愚問となる。現にこのような「法人企業」が、自他共に認める日本の経済社会の中心であろう。なぜかって。ここが現在の「生産・流通・分配・生産的消費」の、いってみれば独占者であろう。国民的消費の提供者であろう。大所高所からみて、そうではありませんか。
商業世界は、三種類ある。1. 商品A、生産要素市場、あるいはたんに「要素市場」と称する。法人企業が国民から「労働」および「土地」という生産要素を買い入れる(内容的には借り入れる)市場ということになる。(要素市場の名でひとつに括るのは、乱暴だとは思いますよ。)2. 商品B、生活資料およびサービスの販売市場。なにしろ郊外にひしめく大手スーパーにすっかり牛耳られている感があります。パパ・ママ・ストアなど、いまや、探すほうがたいへんだ。「ご近所」といったって、あるのはもっぱら大手の「コンビニ」でしょ。屋台のおでんやだの、焼き芋屋だのですら、そうどこにでもありはしない。「サービスの販売?」と奇異に思われるかもしれないが、いまや各家庭が、大手企業の雇用する臨時雇いの人々の大群の「サービスを買っている」んじゃありませんか。代金は会社に払うので、その方々の手には直接は渡らないんですけどね。人々はいまでは自分達の「サービス」を直接(買うのではなくて)自分達で利用することすらしにくいのです。
この中で、中心になるのは、3の商品Cの市場、です。法人企業どうしが生産設備や原材料を売買する市場です。「卸売り市場」とか「卸売り物価」とかいうのは、この市場を中心にします。従来であれば、ここが、商業手形の流通する世界で、商売の中心になっていました。日本銀行が「健全な通貨」を発行する場合にも、商業手形の世の中の発行量・流通量を基準にしていましたものね。(商業手形が企業社会の大動脈であった時代は徐々に、1960年代ごろでしょうか、しぼんできて、別のものに席を譲ってゆきます。まー、これを「企業間信用」と呼ぶのなら、企業間信用が急になくなりはしませんけどね。ただ、商業手形という形式をとらなくなった、というしかない。技術的には、直接の口座振替で法人企業が決済するようになった、といっておきましょう。)
この商業手形全盛時代というのは、それだけ個人資本家がまだ勢力をもっていた時代、ということになります。いま「個人資本家」はどうなったのか。これまた当代には、名目上は「法人企業」になっている場合がほとんどなので、ややこしくなります。しかしこれまた自他共にほんとうの法人企業などとは誰も考えていないのも確かです。たとえば、青色申告企業のうち全国で60パーセントだか70パーセントだかが、常時赤字企業だというのだが、これがまともな「法人企業」でしょうか。
なにしろこの商業手形世界というのは、従来の経済社会の秩序の中心でしたので、当代の社会の性質を観察するためにも、当代との丁寧な比較が欠かせないのです。それに日本国民の多くが、長い年月を掛けて生きてきたから、その都度の自分の人生の知恵の経過を経験している。いきなり当代の、そしてまったく当代にしか通用しない常識で語られても、わけがわからないのです。ゆっくりと主要な「経過」を入れて語れば、話の要点がすぐにわかります。
2016年3月4日、金曜日、午後7時、札幌の天候。今日日中一日中、ときどき雪がちらついていたが、脅威感なし。気温は定温に近い。概して穏やかな天候。明日以降の天候は期待できそうだ。春も近い。
マイナス金利の天気予報。ところで、株式会社が存在する現在の経済社会の構造は、普通、どのように描かれるものだろうか。
私はこう考える。
まず、国内だけで考えてみよう。
主体は3つ。「国家」-「法人企業」-「国民」。この3つが、主体。
この国のあらゆるヒトは、かならず「国民」に属している。「国民」だけが、ヒトの集合である。
「国家」も、「法人企業」も、機関であって、ヒトではない。
民主主義国であるから、政治的主権は「国民」にある。基本的に、国のありようを決めるのは、「国民」である。
「国家」は、この経済社会を調整する機能をもっている。「国家」の権限は、「国民」に由来する。
「法人企業」は、この国の経済的主体のように振舞おうとするが、その振る舞いは「国民」の中から出た株主達によって決定され、「国家」によってその行動を制約される。
純粋経済的な側面に絞って、「国家」、「法人企業」、「国民」という三者の相互関係を描いてみよう。
「法人企業」は、「国民」から、生産要素のうち、労働と土地を「購入」(借用としておこうか)し、代金を支払う。***商品Aとする。
「法人企業」は、生活資料とサービスを「国民」に販売する。***商品Bとしよう。
「法人企業」は、お互い同士で、生産資源(設備、原材料)を売買する。***商品Cとしよう。
「法人企業」が挙げる利益を証券化したものが、株式である。「国民」は家族、家屋敷、家財道具をもっており、貯金したりもするが、「有利な貯金」であることを目指して「法人企業」の株式を買い、配当を受け取る。しかしこれにともなって、株主になった「国民」は、「法人企業」の株主総会に出席して意見を述べ、投票する権利をもつ。
「国家」は、「法人企業」と「国民」に課税し、その対価として、「法人企業」と「国民」に対して「国家サービス」端的には「行政サービス」を提供する。「国家」は、課税徴収権を証券化した「国債」を発行するが、「国民」の中には有利な貯蓄として「国債」を購入する者もある。
まあこういう具合になっているんではありませんか。
「マクロ経済学」の教科書というものがあって、そこに「政府」、「企業」、「家計」と設定されていた主体を、経済社会の構造を考えるために、私はこのように再現したのです。19世紀イギリス資本主義が「自由放任レセ・フエール」していた「個人資本家」と、この上の図に出てくる「法人企業」は、まったく性質の違う存在ですよ。19世紀の個人資本家の「自由放任」に対して、今日の「法人企業」は、「国家」から強い制約を受けるのを免れることは出来ません。
そもそも「法人企業」はヒトではありませんから、政治上の主権には一切かかわりません。(かんがえりゃ、法人企業が政治献金するのは、おかしなことですよ。)
しかし現実には、お互いよく知っているように、「法人企業」はこの経済社会の中心であり、主人公として振舞っています。
それにしても、1990年ごろの世相は、ひどかった。当時勢いのよい会社の社員達と、飲み屋であろうが、結婚式場であろうが、出会おうものなら、この人々の傍若無人な勢いに辟易したものである。それからバブル期というものがきて、こういう風潮は収まったが。
ちなみに、本来は「法人企業」の出資者(株主)を「社員」とよび、「法人企業」に雇われて働く者を社員というのはおかしい。しかし現実には雇われた人々のことを「社員」と呼び、出資者はたんに「株主」としか呼ばれていない。まあたいした混乱もないが。
ところで19世紀の大土地所有者は、どこへ行ったか。