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2016-03-07 14:54:00

2016年3月7日、月曜日、午後3時。札幌の天候。たいへんな好天気。温度が高く、風もない。うちのベランダの雪は冬期中今年は一回も除雪したことがなかったが、すっかり解けてしまいました。春を実感します。しかし実際はなかなか本当の春にはならないでしょう。

マイナス金利の天気予報。法人企業が存在する経済社会の構造について、書いてきました。

ここで(資本主義の)商業世界とは、法人企業が関わる商業の世界で、法人企業どうしが取引する商品Cの世界、法人企業が生活物資を国民に販売する商品Bの世界、法人企業が雇用したり、土地を借りたりする商品Aの世界に分かれますが、なんといっても中心になるのが商品Cのいわゆる「卸売市場」でしょう。

この「卸売市場」を中心として、商品Bの市場、商品Aの市場も含めて、この資本主義の商業世界は、経済学ではどういう概念規定で行なわれるか。なにしろ経済学も経済学者もいろいろありますので、一概には言えないのかもしれない。しかし、ずばりと言って、もっとも有名なのがマルクス『資本論』第2巻全体を充てて述べられている議論です。

簡単に言うと、こういうことのようです。商業と見え、商業世界と見えるのは、実はすっかり資本の回転の姿である。だから商業と言うのは、すっかり資本の回転の運動である。(ここでは資本とは産業資本です)資本の運動が自由に行なわれる以上、個別資本の回転の相互の組み合わせは、いつもなだらかに組み合うわけではない。社会的な個別資本の回転の組み合わせが大きく編成されて資本の循環という現象になるが、この資本循環こそが景気変動の原因になる、と。

このように商業世界で繋がっている企業どうしの関係について、アダム・スミス『国富論』の意見を聞きましょう。アダム・スミスは、資本主義の引き起こした生産力の発展を、基本的に「分業に根ざすもの」としているので有名ですが、(『国富論』は冒頭から分業の議論で説き起こしています)「工場内分業(作業場内分業)」、「社会的分業」の双方に分業の効果と利益を認めています。

19世紀までの資本主義は、基本的に個人資本家が作っている資本主義ですから、お互いが誰でも利用できる社会的分業にも非常な力点が置かれていました。それに対して今日の法人企業の社会では、以前と比べるとより多くの社会的分業が、個別的企業内分業に置き換えられています。このような分業の社会的体制の変化によって、社会全体の生産性はより高まったのか、あるいはかえって低くなったのか、それとも相殺されて変わりがないのか、断は下しにくいのですが、ただいえることは、以前の時代よりも生産力の高まりの効果は、企業の内部により多く吸い込まれるようになりました。

なにしろいまこのように語っているのは、たいへん大雑把な議論なので、これでにわかにどうこうという結論はでません。

ただ、「おや、そんなことがあるのか」位に思っていただきたい。