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2016-03-19 10:25:00

2016年3月19日、土曜日、午前10時、札幌の天候。曇り、時々小雨。常温。北国としてはこのような「春」でも満足しなければならないでしょう。何度も言うようだが、「水道が凍らない」のなら、春です。3月15日に「もう水道凍結はあるまい」と判断し、水道を出すことにしました。とりもなおさずこれが、北国の春ですね。

マイナス金利の天気予報。今日は臨時に寄り道する。

民主党(もう民進党といわなければならないのだろうか)が政策に奨学金拡充を提出しそうだという。ツイートをみたら、最初の何十と言う意見の中でもっとも目立つのが、「その財源はどうするんだ」という「意見」のようです。

しかしこれはおかしい。「その必要ありや」「その必要性の優先順位いかん」が、まず問うところでしょうよ。

奨学金というけれど、内容的には「教育ローン」に過ぎない。多少の寛大さはあるが、ある個人にサラ金が金を貸し付けているのと、そう違わない面がある。借りた人間に担保などなく、いってみれば「出世払い」になっているわけです。思うように出世できなかった者が後日返済計画を守れないで滞納を起こす。出世ばらいできない人口が多すぎたというだけのことかと思います。

3月19日付け北海道新聞39ページに「道内大学生困窮 奨学金利用47%」という記事が出ていました。「道内で日本学生支援機構の奨学金を受けている大学生の割合は、全国より9ポイント高い47.7%である」と。札幌の弁護士らでつくる「北海道学費と奨学金を考える会」の調査結果であると。この会は「給付型拡充を」唱えているらしい。たぶん民主党のいわんとするところも、これとそう異ならないでしょう。

私は、まったく個人的に、考えてみたい。その結果がつぎのような意見です。

なによりもこの問題を、実際に「受給するか、しないか」という立場にあるはずの、当事者の青年達に「本音ではどうなんですか」と聞いてみたい。その程度の政治性もない者が選挙権を持つにはあたりませんので。

わたしはその当事者達に、私個人の経験を申し上げたい。

1. 経済的に困っているのなら、まず進学コストをぐんと引き下げなさい。受験と塾ばかりでカネを使いながら青春を使い果たすなんておよそ考えられない。学校はばら色の場ではないのです。受験ぐらい自分の工夫と努力で乗り切りなさいよ。

2. いざ進学したら、学費・生活費を徹底的に低くしなさい。学費軽減制度などあれば徹底的に検討しなさい。アルバイトの稼ぎでコンパをしたり旅行したりなどもってのほか、何のために学校に入ったのか。大学から3分の新築のマンションにばかり殺到するなど、愚の骨張、昔の北大生はかなり遠いところに住んで、毎日何十分も歩いていましたな。どうして1万円でも2万円でも安いアパートを選ばないのですか、昔の北大生は自転車に乗って自分で安いアパートを探していました。

3. 将来の自分の「出世」と「稼ぎ゜」の見込みを、ぐんと低く取りなさい。せっかく卒業した日が、失業の第1日かもしれないのです。一生かかっても、大学生時代のアパートの部屋が、「いちぱんましな生活環境だった」ということになる公算が大きい。

ここまで考えれば、「奨学金」と称するものは、給付型を除いて、受けないほうが無難ですね。

多くの大学卒業生にとっては、これが「正夢」なのではありませんか。

そういう現実感をいま持てる人だけが、多分奨学金を未来に返済できる人です。あとは大半貸しだおれでしょうね。

たいへん正直なことを申し上げると、私は学歴なぞと言うものには依存しないという強い決心をしていました。しかし結論から言うと、自分の学歴が世渡りの下手な自分を救ってくれたと思わざるをえません。それにしても私は、まるで経費と言うものを学校にはかけなかった。その半面で世の中に大いに救われたと感謝しています。

結局奨学金はきちんとみごとに返済していますよ。たいへんありがたいことに。

私は入学した大学の第1日目を鮮明に覚えています。入学式が終わってたくさんの人間がみないなくなった後、どういうものか、どこへもゆく予定のない、時間の余った人間がその場に10人ほど残った(私もその1人だったのですが)。それでなんとなくお互いにはなしをしたわけですが、あきれたことにその人々はまったくの孤手空拳でそこにいるわけで、全員、今晩から寝るところの予定もないのです。これでなんとかなると思っている所が、若さであり、自負なんでしょう。その一人などは、行李をひとつ背負っていて、話が決まり次第そこへ住もうというわけです。ちょっと話し合った後、全員が同類だと分かって、それじゃ解散しておのおのの運命をさがそうということになった。(それにしても似た様な者がたくさんいると知って、たいへん心強かった。)

むろん入学式に父兄がついてくるなんていうケースは当時ありませんね。大人に父兄がついてきて何になるか。

この時代の青年達に早めに選挙権を与えていれば、政府を何十回もひっくり返したでしょうね。

 

 

2016-03-18 20:28:00

2016年3月18日、金曜日、午後8時、札幌の天候。晴。気温6度。昨日もいい天候だったが、今日もいい日。ただ、今後はまた悪くなりそうだ。

マイナス金利の天気予報。ずっと法人企業を話題にしていた。話題をそちらへ戻す。

以前、商業世界というのは、経済学ではマルクス『資本論』第2部「資本の流通過程」が全巻かけて論じていた、と書いた。商品経済と見えるのは、マルクスに言わせれば、個別諸資本の回転が絡み合って現れて居るもので、一言で言うと「資本の回転」の全様相であろうと。(その意味で、資本の流通、と呼んでもよろしい。)

ところで、です。ここで「資本」といっているのは、「産業資本」のことだが、「産業資本」は資本の総称であって、それは、生産資本(狭義の産業資本)、金融資本(銀行資本)、商業資本という3形態に派生する。

さて、です。いま私たちが「法人資本」というのは、実に20世紀的な資本形態だが(そしてまちがいなく現代の経済社会の中軸だが)、「法人資本」というとき、私たちは自然に、生産的な・産業的な巨大資本をイメージし、それと合わせて、巨大な規模の銀行資本をイメージ゜します(つまり、金融資本を)。

しかしにわかに商業をイメージすることはありません。「商業的」なものならイメージするかもしれないが、商業そのものはイメージしない。

すくなくとも日本の場合、戦前には商業に巨大法人企業は存在しない。存在したのは米国のほうです。たとえばシアーズ・ローバック。

ところで私たちがみている前で、日本でも戦後、巨大な法人企業が小売商業の世界に現れることになった、イトーヨーカドーや、セイユウや、ダイエーなどですね。小売商業の一角から消費大衆の利益を呼号して、スーパー群が現れ、流通革命と言われた。セイキョウ・生活共同組合もまた、この流れに入るとおもいますよ。

これまた法人企業形態をとってますます巨大化し、ついには流通界のさまざまな分野にコングロマリット化するに至った。戦後半世紀の歴史上最大の経済的事件のひとつでしょ。

こうして小売商業もまた法人企業形態から無縁ではないことを証明しました。

こういう過程で、日本の零細小売商業は全滅してしまったのですね。おなじ過程で、日本の小生産・小農業もまた、全滅に瀕しています。ひとことでいうと、小生産の壊滅です。いまや個々人は、法人企業に雇用されるか、さもなければ滅びるしかないのです。その意味で、世は法人の「社員時代」なのでありましょう。もうひとつの生き様は、生活保護の受給者にでもなるしかない。

ところでこの小売商業という分野は、結果的には同じく法人企業形態の支配するところとなったが、その過程でなにやら不思議な論理を示しています。これを正面きって議論する必要がありはしないかと思います。

1970年代ごろ、セイキョウ運動が盛んだった頃、(市民セイキョウの発展期ですね)いろいろ議論していました。「消費者主権論」とでもいうのでしょうか。あの頃はみな「セイキョウ」とは市民運動の一形態だと思っていました。そうするといまのセイキョウはなんなのだろう。

マルクス経済学のほうでは、吉本隆明さんが、超資本主義論、高度消費経済論を説いていました。

20世紀資本主義を考える場合、私は、小売商業という分野をどう考えるのかという議論を欠かせないと思います。ここから現れた動きが、既成の大メーカーと大銀行の秩序をゆすぶったという事実を、度外視できないと思います。その意味で法人企業論は一枚岩ではない。

この議論が意外に難しい議論だということは、感じていただけると思います、しかしこういう「法人資本論」の切口もあることを提案している分には、みなさんにご理解いただけると思いますが。

これは皆さんの人生史でもあるのだから、多少論点がぶれてもナマのお話をもってきて再考するほうがわかりよい。ちょうどいい本がありました。佐野真一『カリスマ 中内功とダイエーの戦後』日経BP、1998年。これを議論の切口にしてみたらどうでしょうか。(皆さんの人生からあらゆる小売商業が消滅してゆく歴史ですね。)吉本さんの本も切口になるでしょう。吉本さんもこうやって読むと面白いのです。

ところで私、前回だったか、申告納税はシャゥプ勧告から、と書きましたが、あれは間違いだと気がつきました。正しくは昭和22年(1947年)からだそうで、2.1ゼネスト中止の混乱を乗り切る緊急策だったそうです。しかし税制として定着することになった。武田昌輔『法人税回顧60年』TKC出版、2009年 の11-13ページに、書いてあります。それにしても、法人企業とは何かということが、確たる内容としてはなかなか定まらなかったのが現実の歴史だということは、この武田さんの本を読むとわかるのです。税制史は法人企業とはなんぞやというぬえのような問題と取り組んできたんですね。この本自体がそのような優れた切口になります。

このように具体論で押してゆくと、なんでも参考になるのですよ。

たんに抽象的に、法人企業とはなんぞや、とやっていたのでは、前進はありません。ネスパ。

 

 

 

 

2016-03-15 23:20:00

2016年3月15日、火曜日、午後11時、札幌の天候。今日の札幌は曇り、小寒かったが、雨雪はなかった。

東芝が中国の家電メーカーの傘下に入るらしいというニュース。ついさきごろ、シャープが台湾メーカーの傘下に入ると発表されたばかりだった。あれほどかって日本を誇らしく代表していた家電が、つぎつぎとアジアのメーカーの傘下に入るとは。

私の弟は電子回路の研究者だったが、若い頃の研究発表の多くが、「同種の製品はすでにあるのだが、こういう工夫をすると性能的にそう違わない製品が3分の1か4分の1で出来る」というものだった。「日本のメーカーでそれに興味をもつ会社があるの」と聞くと、「残念ながら日本のメーカーはこういう発想にあまり興味を持ってくれない」と言っていた。日本のメーカーは絢爛豪華な諸機能を備えた高い機構を開発するのが好みで、こういう高級品を先進国市場に高く売ることで高い付加価値を手にするのがお得意だった。

しかし低開発国では単純な機能しかない製品を激安で買うのが需要で、日本は低開発国向きの製品での戦略に失敗し、気がついたときには追跡不能になっていた。戦後の歴史の中で、経営の舵の取り方を失敗したというしかない。

かつて米国の自動車メーカーは、まるでガソリンを振りまいて走るような大型車を得意としたが、石油が貴重になるにしたがって日欧の小型車に追い上げられることになった。それにしても米国の自動車メーカーは、消滅せずに存在しているよ。

 

2016-03-14 19:06:00

2016年3月14日、月曜日、午後7時、札幌の天候。日中晴で、風はあったが、ひどく寒いとは感じなかった。

ところで午後6時ごろにわかに数十分、大粒の雪が降ってきたので驚く。もっとも、それっきりで、路面に積もりさえしない。

たまたまビデオ「禁じられた遊び」を入手して、みた。忘れかけていたメロディーを思い出して反芻する。

遠い昔、松島の瑞巌寺にいたる長い参道の途中で、この曲を爪弾いていた青年がいた。

当時どうしてこんなに長い参道があるのだろうと、内心不思議だった。

西暦800年ごろだったか、貞観の大地震とそれに伴う大津波が襲ったときのおそらくは記憶で、こんなに海岸から離して瑞巌寺を作った。

今度松島湾を襲った津波は、瑞巌寺までは届かなかった由。

 

2016-03-14 01:33:00

 2016年3月14日、月曜日、午前1時、札幌の天候。零度前後で、曇り。雨雪なし。風なし。気温が低いのは北国なのでしかたがない。しかしもう水道が凍る心配はなくなった。肌寒いが、北国の春だろう、昨夜午後8時ごろ街の中をかなり車で通ったが、路面は黒々と光っている。幹線道路の南向きの歩道は、路面の雪がすっかり溶けたので、ズックでも歩行可能。

マイナス金利の天気予報。このところずっと、会社の話をしている。会社が経済社会の中心になっているから、こういう機会に、会社のありのままの姿をいろいろの角度から総点検したいのだ。

そこで、こういう話題も必要だろう。

会社ということになっていながら、とうてい会社とはいえない存在がある。とくに「一人親方」という実例をご紹介しよう。

大工なら大工が一人で事業を行なっているのだが、これを会社化している場合。この例が各地に意外と多くある。

べつに会社にする特別の理由はない。取引相手が「会社としか取引しない」ので、そうしている。

官庁の入札など、「会社」という資格を要求する場合が多い。

問題はこの「親方」が、労災に入れないでいることだ。

もしこの親方が一人でも職人を雇用していれば、その職人を労災保険に入れ、同時に親方も労災保険に加入できる。

しかし人一人雇用するのは大変なので、親方一人でがんばっているところが多い。

この親方が労災事故に会うと、たいへん悲惨なことになる。

ついこの間、クロス補修の親方が、この一人親方だったが、冬季に暖房代わりに現場で乾燥機の炎を強くして使っていて、これが引火しておおやけどし、ついに死んでしまった。この場合本人が労災に入れなかったので、本人を守る制度がなにもない。

現代はひとのきがつきにくいところに、意外な悲惨が隠れている。

もっともこれを法人企業制度のせいにはしにくいだろう。これは個人事業として、個人事業のまま、社会的な工夫がひつようであろう。

それにしてもしかるべき立派な法人企業が(建設方面にはいくらでも立派な法人企業が存在する)こういう人を雇えばいいのだ。

しかし企業はひとを抱え込まないで、外側に置く。そして「雇用」ではなく、「対等の取引」の形式にしたがるのである。

結果として建築業の周辺にいろいろの職種の大量の一人親方が(会社の名目で)いることになる。

 

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