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2016-03-04 19:31:00

2016年3月4日、金曜日、午後7時、札幌の天候。今日日中一日中、ときどき雪がちらついていたが、脅威感なし。気温は定温に近い。概して穏やかな天候。明日以降の天候は期待できそうだ。春も近い。

マイナス金利の天気予報。ところで、株式会社が存在する現在の経済社会の構造は、普通、どのように描かれるものだろうか。

私はこう考える。

まず、国内だけで考えてみよう。

主体は3つ。「国家」-「法人企業」-「国民」。この3つが、主体。

この国のあらゆるヒトは、かならず「国民」に属している。「国民」だけが、ヒトの集合である。

「国家」も、「法人企業」も、機関であって、ヒトではない。

民主主義国であるから、政治的主権は「国民」にある。基本的に、国のありようを決めるのは、「国民」である。

「国家」は、この経済社会を調整する機能をもっている。「国家」の権限は、「国民」に由来する。

「法人企業」は、この国の経済的主体のように振舞おうとするが、その振る舞いは「国民」の中から出た株主達によって決定され、「国家」によってその行動を制約される。

純粋経済的な側面に絞って、「国家」、「法人企業」、「国民」という三者の相互関係を描いてみよう。

「法人企業」は、「国民」から、生産要素のうち、労働と土地を「購入」(借用としておこうか)し、代金を支払う。***商品Aとする。

「法人企業」は、生活資料とサービスを「国民」に販売する。***商品Bとしよう。

「法人企業」は、お互い同士で、生産資源(設備、原材料)を売買する。***商品Cとしよう。

「法人企業」が挙げる利益を証券化したものが、株式である。「国民」は家族、家屋敷、家財道具をもっており、貯金したりもするが、「有利な貯金」であることを目指して「法人企業」の株式を買い、配当を受け取る。しかしこれにともなって、株主になった「国民」は、「法人企業」の株主総会に出席して意見を述べ、投票する権利をもつ。

「国家」は、「法人企業」と「国民」に課税し、その対価として、「法人企業」と「国民」に対して「国家サービス」端的には「行政サービス」を提供する。「国家」は、課税徴収権を証券化した「国債」を発行するが、「国民」の中には有利な貯蓄として「国債」を購入する者もある。

まあこういう具合になっているんではありませんか。

「マクロ経済学」の教科書というものがあって、そこに「政府」、「企業」、「家計」と設定されていた主体を、経済社会の構造を考えるために、私はこのように再現したのです。19世紀イギリス資本主義が「自由放任レセ・フエール」していた「個人資本家」と、この上の図に出てくる「法人企業」は、まったく性質の違う存在ですよ。19世紀の個人資本家の「自由放任」に対して、今日の「法人企業」は、「国家」から強い制約を受けるのを免れることは出来ません。

そもそも「法人企業」はヒトではありませんから、政治上の主権には一切かかわりません。(かんがえりゃ、法人企業が政治献金するのは、おかしなことですよ。)

しかし現実には、お互いよく知っているように、「法人企業」はこの経済社会の中心であり、主人公として振舞っています。

それにしても、1990年ごろの世相は、ひどかった。当時勢いのよい会社の社員達と、飲み屋であろうが、結婚式場であろうが、出会おうものなら、この人々の傍若無人な勢いに辟易したものである。それからバブル期というものがきて、こういう風潮は収まったが。

ちなみに、本来は「法人企業」の出資者(株主)を「社員」とよび、「法人企業」に雇われて働く者を社員というのはおかしい。しかし現実には雇われた人々のことを「社員」と呼び、出資者はたんに「株主」としか呼ばれていない。まあたいした混乱もないが。

ところで19世紀の大土地所有者は、どこへ行ったか。