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2017-12-28 23:01:00
私は以前、年齢の異なる何人かの人々と、哲学の討論会をしたことがあった。あるとき、継続して出席していた若い女性の出席者が、私に面談を求め、こう聞いた。「人は、死んだあとどうなるのですか」★この問いは、明らかに、「私は、死んだあと、どうなるのですか」という問いである。そしてこれはおのずと、「あなたは、死んだあと、どうなるのですか」という問いでもある。★私はこう語った。「あなたが共に生きた人の心の中に、あなたが生きています」★この哲学の討論会は、1年ほど続いて、終わった。参会者間の交際は、その後ない。そもそもこの会合は、私も、参会者も、その外部で作られた枠の中で起こり、終わったものであるから、たいへん熱心に、参会者の中の数人は心を傾けて語り合ったが、自分で自主的に作った会合ではなかったので、「終わって、消滅する」のは致し方ない成り行きであった。★だが、たとえ成り行きが何であろうと、「人が、死んだあと、どうなるのか」という対話は、私とその女性が自ら生み出した対話である。消すことはできない。★哲学の会合にあって、この対話は、宗教的性質の対話である。形而上学どころか、いわばドグマたらざるをえない。ひとにはドグマも必要なのだ。★論理的には、この話の外側に、もうひとつ広い世界がある。「共に生きた」ということの中には、直接的な関係ばかりではない。たとえば、ある歌手の歌唱が、多くの人々の心に残した思い出のような性質のものもあるはずだ。この「共に生きた」世界は広々としているが、同時に間接的でもあることは免れないであろう。ひとによっては、こういう広い世界に強く期待する。