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2025-07-23 06:26:00
株式会社というものは、その素朴な発足の姿でいえば、個人資本家たちが何人か集合して「一個の事業体」を作る・その事業体であるという事になるが、仮に事業体のほうから見ると、その事業体へ各資本家が出資して「株式」を受け取るという「仮の人間」という人格(法人格)を社会的に認められるということになる・この「法人」が社会的にどこまで「人間同様」かというところは、政治と社会の根幹にかかわる問題で実に容易に定めうることではないのは、「企業が政治資金を供与することが合法か否か」という一論点を考えるだけでもお分かりいただけよう。/株式会社の「利得」については、いっそう悩ましい社会的問題(株主主権は絶対か相対か)があるのはすでに話題にしたが、そもそもこの株式会社の「利得」というのが本来的に玄妙な性質のものである。株式会社を一個の個人資本家と考えれば、それは事業経営を経て「企業利潤」を挙げる。出資者(投資家)はその会社の株式を買って株主になり、「配当」を受け取る。しかし株主はいつでも株式市場で自分の持ち株を時価で売って会社とのかかわりをやめることができる。ある程度の時間をおいてみると、株主が受け取る「配当」というのは、その株式の時価相当金額を会社が銀行からローンで得て支払う借入金利と比較してみると、実に「社会の標準金利」と「配当水準」とあまり変わらなくなっているのは皆さんが日々観察している通り。「配当」というのが会社の挙げた「企業利潤」の「主要な部分」だともし信じていればそれでおしまいだか、いやそんなはずはあるまい・膨大な「利得」がまだ会社に残っているのではないかと、経済学者だってそう思う。むろん従業員の賃金はすでに「配当」の計算でなくなっている。この「配当」の後に残る膨大な「株式会社の利得」は、実に、株式会社というものを設定したことによって生じているものだが、その「経済学的性格」を論理的に明らかにするのは難しく(こういう具合に問題を提起すれば、アダム・スミスなら遠慮なく言うだろう、「公益に帰せしめよ」と。これが公益説の箴言。ただ、今度は、公益とは何かという長い論争となろう。)、現実にはこれがほとんど「株式会社の経営者」のものに擬されるのである。口実は、それは株式会社の経費だと。つまり現実論としては、政治的に「株主主権論」といわれるものは、真実の政治的な内容としては、「経営者主権論」なのてある。まあ、強い労働組合があれば、労働者の経営参加などと主張されるときもある。昨今のように労働運動が弱いときには、そのような政治的主張も稀にしか聞こえない。/なお上のような議論では、会社の規模の大きさによって生じる「規模の利益」、まあ独占利潤などと急に言わないことにしよう、は度外視している。いずれにせよ、現実論では、大企業だからこそこういう議論が展開されうる。「会社」といっても、数からいえばその大多数は、「儲からない会社」「損して存続している会社」であることが多いので。