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2025-06-10 17:04:00
いったいここに「貨幣」がどのようにして出現するのか、いままで自明と見ていたのが急になにやら難しくなってきた。現実に貨幣が社会に出現したのはまぎれもない事実である。ただそのことが経済理論としてはどういう把握になるのかというと、えらく難しいことになる。「貨幣・金融理論」というのは経済学の分科の中でももっとも度し難い代物だ。それにしても今貨幣が仮想通貨になったとか、これからなるとか言っているわけだが、その貨幣が従来どう理解されていたかをいま「その代替」ないしは「消滅」にさいして確認しておいて何らおかしなことではなかろう。貨幣に関連して、通貨とか、法貨とかいろいろの用語がある。これはどう違うのか。なぜ貨幣が成立し、なぜ貨幣が「ある価値」を持つのか、その価値はどう測られるのか、貨幣を貨幣たらしめる「正当性」はどこにあるのか、国家にあるのか、兌換にあるのか、準備にあるのか、貨幣はなんとかわかっても「金融資産」なるものは、なぜ、どのように、貨幣と関係するのか、そもそも金融資産なるものはなぜ社会に存在するのか。これはいま仮想通貨資産なるものが征服しようとしている戦場なのは間違いないが、その概念規定すら納得を欠くのでは、本当に「征服」が行われたのかどうかすらわからぬではないか。そういうわけでいまビッドコインが暴騰するか暴落するかという米国の話を尻目に、独り言を言っているのである。/後出しじゃんけんで、おそれいるが、今まで書いてきた点で、一つ、訂正しておきたい。アダム・スミスが「生産の経済学者」だと書いた。しかしスミスが書いた歴史的時期を考えると、彼が想定する生産ー流通ー消費では、生産の主体はきわめて個人的な事業者で、いってみれば「独立自営農民」的なものだ。なお当時は法人は国家に奉仕するという強い公益性をもつてしか語られることはない・19世紀になってすらこの伝統が残っている・消費の主体もやはり「個人」だ。流通の意義は(少なくとも国内では)スミスの場合極めて限定的となろう。国民経済学は著者の活躍した時期に応じて「立場」に強い歴史性があるというわけだ。