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2025-06-10 05:32:00
生産ー流通ー消費というシェーマで、生産と消費が融合したら、流通は存在しないことになる。そうすれば「貨幣」が存在する理由がなくなる。アルビン・トフラー氏は現社会(氏によれば1950年代末からそういう社会が現れたとしている・そして2025年までにはその社会の現実が明瞭になろうと)を「知識社会・情報社会」と名付けた。現社会における生産と消費の融合を説いたのはトフラー氏である。(すべてがそうなったとは言っていない。かなり大きな部分が現にそうなっているという)トフラー氏は多くの具体例を挙げているから知りたければ同氏の有名な何冊もの本を読まれるがよい。その中で端的で一番わかりやすい例は、グーグルの検索に触れた箇所だろう。人々はグーグルの検索が「無料」でできるから「気楽に」頻繁に検索する・人々が検索活動をする都度、その検索にかかわったあらゆるデータは当然にグーグルの手中に収まって、グーグルがいろいろな営業活動をするための土俵を「生産」していることになる。この場合人々は、グーグルを「消費」しているのだが、同時にグーグルを「生産」している、と。(AIともなればこの生産=消費活動はいっそう大規模だろうね。)これであなたにはトフラー氏の言わんとする意味を察していただけよう。それともあなた、ネット社会というものは、いわれているように
「ただ」のもので、トフラーはいわれなく誹謗していると思うのかね。/ただ、トフラー氏のシェーマ・生産ー流通ー消費は、生産の主体を何としているのかという点で、理論上考慮すべきものがある。トフラー氏は生産(そして消費)の主体を生産者すなわち労働者としているわけだ。しかし経済学は普通、生産者=資本家とする。そして資本家による生産物の消費=再生産とするわけだ。生産ー流通ー消費についてのこの2つの理解の統一は、資本主義の再生産表式(マルクス)で行われる。そうさね、資本が生産の主体と理解するときに、初めて資本主義的信用が現れ、貨幣はそのような資本主義的信用に基づいて再把握される。そういう歴史的姿の代表が銀行預金だ。それゆえトフラー氏の議論には銀行信用は比較的に登場しないのだ。さて、それにしても、生産される生産物が、トフラー氏が規定するように主要には「情報」「知識」であれば、「経済学」はどうなるのだろう。これがここで考えようとしていることの要点だ。ほう、株式会社はどうなったかと、聞かれるか。現代であれば生産の主体は企業、すなわち法人企業だと言ったら?これは実はたいへんにあいまいな規定だが、現実論としてはすぐにわかっていただけよう。で、どうなる?