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2025-04-24 19:57:00
民間的な信仰の世界では、「稲荷神社」のお使いが狐、というのがある。衆目が時にまちがえるような、「狐がご神体」ではないよ。神様系、仏教系と二種類あるが、どの場合でもれっきとしたご神体があり、それは狐ではない。狐はあくまで使者。その伝えるものがあまりにも尊いと思う人々が、お使いの狐を神様とみなしたということはあろう。/一転して本当に「尊い」お話をしよう。先ごろ病没されたローマ法王は、イエス・キリストの出現を告げる「使徒たち」のトップだった人・ペトロ(これがローマ教会の最初の法王に当たるだろうね)のはるかな後継者。使徒たちの役目は、救い主が現れたという「グッド・ニュース(つまり福音だね)」を人々にあまねく伝える使者であった。法王は尊い使者だが、法王そのものが神様ではないよ。/別の芳しい話をしよう。日本の古代史に出てくる有名な話。推古天皇の摂政であった聖徳太子は、小野妹子を使者の代表として、隣国「隋」の煬帝(ようだい)に本朝第一回の使者を送ったが、その国書にいわく「日いずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなしや。」なんとまあ、今日の日米格差の数十倍もの国力差のある国の元首宛てに、堂々の対等のあいさつを送った。この「行人」が燦然と日本史に輝くのは、中学生の君にも理由がわかるだろう。その「お使い」が相手に伝えた内容が「対等感あふれる」ものだったからだ。冒頭の狐の例だって、狐そのものが尊いわけがない、狐が運んだよい運が庶民を喜ばせたからだ。伝えたメッセージの内容こそが、「行人」を尊くもすれば、二束三文にもする。さていま日本が煬帝ならぬトランプ氏に送った「行人」は、日本史にその思い出が残るだろうかな。