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2023-05-07 19:58:00
弁護士布施辰治を語る。 森 正 名古屋市立大学名誉教授 次の文章は、「ドキュメンタリー映画 弁護士 布施辰治」というホームページに掲載されている「布施辰治を語る」という文集の中の一編です。日本国憲法成立のさいに存在していた布施辰治の「民間私案」として、「国民主権、象徴天皇制、非武装平和主義」がうたわれていた(私案の発表が1946年1月1日付となっている)。もうひとつ、驚くべきことに、布施辰治はおなじころ、「朝鮮建国憲法私案」を執筆しており(1945年12月1日付)、その内容は「国民主権、大統領制、非武装平和主義」である。こういう事実をいまの日本人は知っていてよいのではないか。 憲法と布施辰治 ― 森 正 名古屋市立大学名誉教授 ―  編集部から要請されたテーマは、「憲法と布施辰治」である。すぐに思い浮かぶのは、明治憲法との関係であり、日本敗戦からまもなく発表した「憲法改正私案」と「朝鮮建国憲法草案私稿」である。少し堅苦しい話になりそうだが、布施辰治の思想と行動の本質にふれる論点を示したいのでお許しをいただきたい。  まず明治憲法との関係であるが、明治憲法下での弁護活動と社会運動はきわめて戦闘的・急進的であり、在野精神を堅持した布施は弁護士界でまさに異色の存在だった。作家で社会運動家の中西伊之助が「社会活動の発電所」と表現したように、人権擁護や普通選挙運動で国内外を東奔西走しており、植民地支配に苦しむ朝鮮人から「我らの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治)」と親しまれ、時には「神様」と敬われることもあった。台湾人も同じような感情を抱いていただろう。  二回に及ぶ弁護士資格剥奪・入獄に象徴されるように、布施と国家(権力)は長期間にわたって激しく対立したので、国家の基本法=明治憲法をまったく認めなかった人物だと思われているかもしれない。しかし、布施は明治憲法を否定していたわけではない。学説でいえば、明治憲法の近代的な側面に光を当てた美濃部達吉の天皇機関説、吉野作造の民本主義論に共鳴していたといえる。最初の著書『君民同治の理想と普通選挙』(1917年)で、布施は国体の基本を「君民同治」と捉えているが、明治憲法時代にその考えがブレるようなことはなかった。条件付きではあるが、この一点で、布施は社会主義者や共産主義者ではなかったといえるのである。  にもかかわらず布施の諸活動の多くは急進的であり、実質的には明治憲法(体制)の大改革を要求していたといえ、国家(権力)はそんな布施を嫌悪・警戒し、弾圧の機会を窺いつづけた。布施を急進的にさせたのは、社会的経済的弱者・政治的少数者の人権擁護を自らの使命と自覚し、明治憲法の前近代的な側面と厳しく対峙したからである、というのが私の理解である。布施は明治憲法下で、現行弁護士法(1949年)における弁護士の使命=人権の擁護と社会正義の実現に殉じている。その情熱は、治安維持法違反事件での被告保釈中も刑事同行で東北北上山地の入会権調査へと向かわせ、現地の人々を感激させている。  重要なことは、布施の国民認識、および権利認識が明治憲法のそれと違っていたことである。明治憲法では国民は主権者天皇の政治支配の客体者と位置づけられ、その結果、国民の権利は天皇の思召しと捉えられており、しかも「法律ノ範囲内二於テ」のみ保障するという、いわゆる法律の留保付き権利であった。それにたいして布施は、国民を政治と権利の主体者と位置づけ(前述の「君民同治」はその意味)、その権利を天賦・不可侵・不可譲の自然権=基本的人権と捉えていた。布施は米騒動事件の法廷弁論で騒動に革命行動を含意させながらその正当性を論じ、民衆をして革命を含む変革の主体と捉えていることを示唆しているが、米騒動に結集した民衆の熱気に煽られたわけではなく、大正デモクラシー運動のなかで力量をつけてきた民衆への信頼感と自らの人権思想の発露としての弁論だった。  あと一つ重要なことは、布施は近代日本における諸思潮、すなわち自由民権思想・東洋思想・キリスト教思想・社会主義思想・トルストイ思想、さらには鉱毒被害を告発する田中正造の思想と行動などを、実践的に学びかつ検証するなかで人権思想を形成していったということである。ロックやモンテスキュー、ルソーら西洋の啓蒙思想だけを学んだわけではないのである。  独自の人権思想を形成した布施は、自らを「人道主義者」と称している。武者小路実篤や有島武郎ら白樺派の「人道主義者」とは違う意味で、私もまた布施を人道主義者と理解している。布施が自称する人道主義者の像は、明治憲法下の日常社会で個々人・民衆と接点をもち、同じ次元で悩み苦しみ、そして闘うなかで到達した〝自画像〟であった。  日本国憲法はGHQ(連合軍総司令部)の押し付けだ、憲法の人権カタログは丸ごと欧米の人権思想の直輸入だ、などという乱暴な説がある。この説が正しいとすれば、明治憲法(体制)と厳しく向き合いながら基本的人権思想を身につけ、それの実現を懸命に模索しつづけた、布施のような日本人の事績はどんな意味があったのかということになる。憲法制定を主導したのはGHQだったが、マッカーサー憲法草案は重要な点で日本の民間憲法案を参考にしたという事実を見落としてはいけない。  というわけで布施辰治の憲法案について考えてみたいが、以上のような明治憲法との関係からして、布施が自国の憲法制定にいち早く反応し、「憲法改正私案」(1946年1月1日付)を発表するのは当然だったというべきだろう。しかし、「朝鮮建国憲法草案私稿」(45年12月1日付。発表は46年4月)は、まさに驚きの文書といわざるをえない。  これら二つの憲法案(以下、前者を(1)、後者を(2)と表示)の構想時期であるが、(1)は日本敗戦の1945年8月から2、3カ月後に、(2)についてはなんと敗戦翌月の9月に開始している。日本敗戦=朝鮮解放=建国という緊急事態下で、布施はきわめて迅速に朝鮮人のために動いたのである。布施は、「朝鮮独立運動闘士と諮って構想し、結局、朴烈君を委員長とする建国促進会の大学テキストとして執筆した」、「わたくし独自の国家観と世界観を織り交ぜた民主国家建設の具体的な構想を最も自由な朝鮮建国の憲法草案に表現してみたいと考へた思索である」などと述べている。  それにしても、独立朝鮮の憲法案を構想する日本人が実際にいて、そして朝鮮人がそれを受け入れて学ぼうとしていた……という事実が驚きである。(2)=「朝鮮建国憲法草案私稿」は、明治憲法下で布施と朝鮮人が育んだ友情と連帯心が本物だった証しでもある。  二つの憲法案の特徴を指摘すると、(1)は国民主権・象徴天皇制・非武装平和主義、(2)は国民主権・大統領制・非武装平和主義、である。残念ながら(1)、(2)とも未だ本格的に検討されていないが、前者については、最近、マッカーサー憲法草案の象徴天皇制構想に影響を与えたという説が出されている。  布施は(2)の序文で、あらゆる武装を解除した国家は、「文化国家建設の理想を高く掲げて、世界に先駆する建国憲法の基礎方針を確立することが出来る」と述べている。(1)についても同じ考えだっただろう。  「東アジア共同体」――、布施は二つの憲法案にこの大きな夢を託していたのではないだろうか。もちろん、平和を愛する「民」の立場から。2004年、韓国政府は布施に韓国独立勲章を授与したが、そのさいの羅鐘一韓国大使の言葉、「勲章の授与は、韓国と日本の新たな協力時代を開いていきたいという韓国の誓いである」は、はなはだ示唆的である。今年2010年は韓国併合から百年という節目の年である。私たちは今こそ布施の事績を見つめ直し、学び、かつ実践してみたいものである。