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宇野先生は、マルクスが『資本論』で説いている資本主義的生産様式というのは、本来「資本主義的商品経済」社会論であって、商品形態が一社会の内部に浸透しその社会を全面的に律するに至ったものであると、資本主義社会における商品形態の基底性を把握される。こういう把握に合致しにくい議論は『資本論』から排除して純化した議論が、先生の「経済原論」である。
資本主義の歴史的推移に伴って、資本制も生成、発展、爛熟と経過することになるが、その歴史的諸段階に応じて、その時期の「典型的な国」について、その段階に特徴的な規定をまとめた「段階論」を想定する。(生成期=重商主義、発展期=自由主義、爛熟期=帝国主義)折に触れて議論する必要がある事柄は、この「経済原論」と「段階論」によって理論的に規定された「現状分析」として取り組まれるべきであろうと。
この「経済原論」「段階論」「現状分析」という三段構えの理論的枠組みは、宇野派経済学の三段階論と批評されてきた。
ところで、マルクスの『資本論』は、経済理論であるばかりでなく、たいへんに歴史的な議論であり、そのうえたいへんに思想的な議論である。それが宇野先生の経済学では、歴史的な議論は割愛され、思想的な議論も割愛され、「経済原論」という「資本主義的商品経済論」が純化して残された。そして「資本主義自体の歴史」はもっぱら「段階論」という議論の中に閉じ込められることになった。
宇野派がマルクス経済学の主流派である限り、たしかに斉藤幸平氏が指摘されるように、歴史や思想という切り口から資本主義を考えよう・『資本論』を読もうとする者が、研究のしょっぱなから排除されるという思いが残ったかもしれない。それはよく理解できる。しかしだからと言って宇野派に学ぶことをしないでそれを頭から排除するというのは、これまた大変な行き過ぎであろう。宇野派には学べき優れた特徴も数々あるのだから。