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2020-08-17 09:24:00

8月15日、終戦記念75周年とか。テレビで終戦の日特集を見ていて、ふと、75年前の当日の自分を思い出した。☆当時のうちは、郡役所跡の坂の正面にあり、班長さんの家はちょうど坂を下り切ったところにあって、うちの向かいだった。☆私はふと自家の外に出て、向かいの班長さんの(ブリキやさんといっていたが、当時ブリキ業などしていない)家を見ると、班長さんの家の外に、家の中に入りきらない数人の人があふれていて、天皇陛下の終戦の放送を聴いていた。暑い日であった。なにやらくぐもったようなラジオの音声が聞こえ、立っている人々はときどきすすり泣きしながら放送を聴いていた。私は数分でその場を離れ家の中に戻ったので、それ以上の記憶はない。☆その日が大変に暑い日だったことは覚えている。母や祖父に見たことを知らせたが、「そうか」というばかりだった。それにしてもこの放送が、この土岐津町高山上町(たかやまかみまち)で戦中と戦後を分ける境になった。ラジオがあるのは限られた家で、うちにはもちろんない。それでも当時日中でもラジオをつけっぱなしにしているところが多いので、国民学校の帰校時など路上でどこかの家のラジオが鳴っているのが聞こえたものである。「空襲警報発令」とか「空襲警報解除」とかいう知らせを路上にいる人が聞かなければならないので、それは必須の習慣だった。☆私がこの放送の様子を目にした時の人々は全て私よりはるかに年長であり、この地区にそうたくさん子供がいたわけではない。してみるとこの高山上町の放送の思い出は、もう私の脳裏のなかにしかないのかもしれない。☆戦中は比較的に平穏に過ぎ、驚天動地の様々の出来事は終戦後にうわっと現れた。「出征軍人の家」という札が貼ってあった当家は、戦後まもなくこの土地を離れることになった。私の父は昭和12年(1937年)「シナ事変」の上海上陸作戦で、ダイジョウチンとかいうところで戦傷を受けた。この作戦で岐阜第68連隊が非常な打撃を受け、土岐津町から召集された壮丁が大量に戦死した。(後年私はこのあと同じ個所に入った長野県の連隊の人から話を聞く機会があった。)この大量戦死は以後の土岐津町の招集に大変な不都合を来し、この戦いに生き残った父はその後昭和20年まで何度も招集されることになった。それでも無事に帰って戦後を迎えることができたのは、運のよいことであった。