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北海道新聞8月4日号6頁に「時代を視る」というエッセイが載るが、この日の場合、中村和恵氏「コロナ時代を生きる知恵 豪先住民族の思想に学ぶ」という文章であった。現在のコロナ禍を思うにつけても、人類は無慮数万年もの歴史の間に、当然に「危険な病原体が猛威を振るう」状況に何度も遭遇したはずで、よくも人類は「病原体の危険」に会いながら絶滅を免れたものだと。「人類絶滅の危機」は、集住、自然を開発する行為、人口増加の3つをきっかけにするのではないかと説いて、オーストラリア先住民に見られる「まばらに暮らす」狩猟採集民の生活、「ぼくらは大地が維持可能な数にしか人口を増やさなかった」(ソーントン氏)生活が、オーストラリア先住民の場合、「病原体の危険」を5万年間乗り越えてきたと説かれる。☆ここまでの論旨はよくわかる。これは事実を述べた文であり、かくてオーストラリア先住民が5万年の歴史を生きたと言っている。しかしこの先で筆者は一歩踏み出して、「現在の人類」の運命を話題にする。その際に「狩猟採集民の小集団こそ、人類史上もつとも長く採用されてきたライフスタイルであり、古代の都市国家などはじつはごく例外的なものだった」(スコット氏)という「テーゼ」が「現在の人類」にとっても当然の基準とされる。「古代の都市文明は、みな滅びた。近代国家と高度な現代文明の歴史は、ここわずか数百年。先は、分からない。」と主張されるわけだ。☆都市化と地球環境破壊に抗する人類的工夫を進めるのが肝要で、そのための知の構築が必要だとの結論は当然である。しかしその工夫やそのための知の構築の議論は、たいへん大雑把な付けたしになっている。たいへん弱弱しい結論であるだけに、「都市は人類にとって例外的なもの」というこの人の断言だけが重々しく響く。さてこれを読んだ人は何をすればいいのだろうかね。