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2020-05-17 14:11:00
日曜日。江戸時代というたいへん原始的な設定の下でのマルチチュードをさらにいくつか挙げよう。★富籤(現代の宝籤)。公的な性質の主催者が、公的経費を調達する手段として行う。私人は、富籤の発行は許されない。この点は、現代でも基本的には同様である。江戸の町人が籤を買って、「当たればその***倍が授かる籤」に一時の夢を賭ける。むろん倍率から言って、その興行の全体では、籤を買った者の全員はかならず分の悪いリターンにしかならない・その差が興行元の「収入」になって、神社の鳥居でも作るのだろう。いろいろバラエティがあるだろうが、現代でも事情は同じ。誰でも興行できるわけではない。競馬、競輪、競艇、皆そうだろう。「たまたまの楽しみでやる」のだから、社会的意味もあるので、毎日のように行って賭けるというのは、本来おかしい。パチンコだってそうだ。★私人がこういう企画をする時には、現金を賞品にするのは、本来許されていない。「常識の範囲で」物品を賞品にするので、許されている。パチンコだって、麗麗と現金がもどってくる仕掛けと言うのは、元来おかしい。(しかし現実は、政府が賭博場を公認しようとしているように思える。そういう法律がこの前通過したものね。「博徒を糾合して常習的に賭博をなす者は云々」というわが刑法の条文は、いずれ改正される日が来るのかな。)★別に、こういう話がある。畳には四隅がある。最初の隅にコメ2粒を置き、次の隅には2粒の2倍、つまり4粒を置く。こうしてある家の中の全部の畳の隅に置けるだけのコメの総量をいただけないか。こういうビッドに応えたら、どういうことになるか。気の遠くなるほど大量のコメを相手に引き渡すことになる。ごくわずかな分量のものを次次とある規則の下に重ねてゆけば、結果が恐るべき大量になることは知れ切っている。この「数理」を、相手の無知に付け込んで相手に強要すれば、これは騙しである。まともな取引ではない。江戸時代の算術の本にたいてい出てくる話である。★現代だと、「国民全体」「国民各個」いくらずつで、日本国全体でいくら、という話が、話の持って行きようでは非常にトリッキーな議論になる。個と全体という話が往々トリッキーな内容のものになる。