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2020-05-15 09:30:00
この「お知らせ」5/11に、大前研一氏の「新大陸」観のさわりを紹介し、この「新大陸」が、グローバル、サイバー、マルチチュードという3つのモメントから成っているとした。★じつにこのマルチチュードという概念が、社会通常の人々の知見にはなかなかなじまないようなのだ。★この概念は、もともと資本主義の経済にとって、いやあえて信用経済にとつて、いわば当然のことなのだ。この当然のことが、通常の人にはもともと見えにくかった。ましてやこれが「新大陸」とかの一モメントとなると、さらに見えにくい。これを解きほぐす文章も、超ゆうゆうと進むのが至当。★大前さんはもともとたいへんに言いにくいことをうまく言い開いている。肝心のところをおぼめかしく表現するのは、ゆかしいお人柄だ。それは同時にわかる人にはすぐわかるがわからない人には全然わからない文章になる。さてマルチチュードとは、かのベルリッツの英英辞典では、multiple; multiplex; multiplication; multiplicity; multiplier; multiply; multitude という単語が並んでいる。倍率ということだろ、倍増だったり、大量だったり。信用経済と言うのなら、「投資効率」かな。まあそう先走らない。もともと物事の開示には、「顕教的開示」と「密教的開示」の二つがある。前者は明晰で即物的、後者は「不立文字」(ことばではとうてい言い表せない・ないしは、あえて言い表さない)。ゆつくり語るとは、密教的内容を顕教的に言い表すことだろう。英語でいうと、パラフレーズ。★通常の人々にとって投機とはどういう内容の事か。あえて江戸時代に身を移そう。ばくちだな。丁半サイコロ目に賭ける賭博。この掛け目は、基本的に1対1. 丁に自分の持ち金を張って、当たると自分の持ち金が倍になる。これがだれにでもよくわかる投機倍率だ。通常人にとって「まともな」投機倍率だ。この賭けを保証するのは、自分と相手。相手がこの賭けの約束を守ってくれなければ、直ちに争いになる。「賭場」というのは、この賭けの約束を守る「社会的仕組み」のはずだが、賭場の親方自体が賭けの一方の当事者になったりすると、この「社会」は再び「自他」二者しか当事者がいない姿に戻る。賭場の外側に広がる世間は、賭場の存在にもともと批判的だから、賭場の約束を守るありようには、私的暴力が付きまとうことになろう。(かくして、投機は、通常人には、根本的に、まともなこととは思えないことになる。)これがマルチプル倍の世界。(西洋のルーレットのように、掛け目の倍率がいくらか複雑になつても、ここでいう限りのマルチプルの性質は変わるまい。)★この場合の世間の目は、たとえ賭場を嫌悪しても、1対1の掛け目で掛けることそのこと自体は、「賭けとしては当然」と思うだろう。自分はやらないだけで、やるとなればそうなるのが当然と思うだろう。しかしこの江戸時代当然の姿にも、考えようによっては、世の常ならぬおどろおどろしい倍率が「つながりうる」。