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2019-11-06 18:02:00
水曜日・曇り・札幌。★日中冷涼な気候。車のタイヤ、今日冬タイヤに替えた。2千数百円。★「点と直線」。目の前に、平面があり、そこに「1点」を画したとする。その1点Pの所在を示すには。平面上に直角に交わる直線2本(X軸とY軸)があるものとし、1点Pの、この十字に交わっている2つの直線からの位置(X座標とY座標)で、1点Pの位置を表すことになるんだと。P(Xの値、Yの値)という表し方になるんだと。この平面を座標平面というんだと。★座標平面という設定は、当然に、それに先立って、平面上に一線がある、という想定が必要だろう。数直線と言っている。1点Pがこの数直線上にあって、数直線上のゼロ点(基準点)からdの距離にあるとすれば、P(d)と、1点Pの位置を表すことになる。この場合、距離にも基準を定めておかないと、dの距離というのが具体性を欠く。だから前もって「1」という距離が定められていて、距離dは1のd倍ということになる。また、「見たまま」の観察を前提すれば、数直線のゼロより右方向が+、左方向がマイナスであろう。★遡って、座標軸については、X軸はいま言った数直線とおなじ、Y軸は、ゼロ点より上方がプラス、下方がマイナスということになろう。★そもそも、「見たまま」の観察を主体として、図形の性質を(合同とか、相似とか)学習するのが「幾何」というありよう、それに対して、図形を方程式であらわして、方程式を通じて図形の性質を学習するのが、「解析幾何」というありようであろう。わたしがわかいときには、「解析Ⅰ、Ⅱ」「幾何」という数学科目が高校にあり、幾何を方程式で学ぶ「解析幾何」というありようも存在していた。ところが近年は、「幾何」が姿を消して、かつての「解析幾何」が「数学Ⅱ」の主要部分として登場している。わたし大学1年の時、教養科目の「数学」で、ヒルベルトを習い、往年ギリシャのピタゴラスに発する偉大なるピタゴラス幾何学の意味が、ピタゴラスが当然として前提した公理にヒルベルトが疑問を提したことにより、相対化されることになったと知った。(幾何学自体は知識知能の訓練の上でいまでも素晴らしい力をもっているとは思うが。)それに「みたまま」の観察のもつ意味合いが、人間の思考のありようの中で、独特の性質をもつようになっていることは、数学の素数の登場によっても知られよう。(みたままの現実は認識の絶対の前提とはなりえない。)★文科系の出来の悪い人間ほど、あれやこれやとつまらないことにこだわって、肝心の数学の学習はさっぱり進まないものなのだ。そこへゆくと数学の教師と言うのは、99%理科系の人間だから、生徒の大部分を占める「文科系的気質」が理解できない。だから数学の授業が進むほどに生徒はどんどん脱落してゆくことになる。(文科系はどんなに拙くとも感覚的にわかる文章になっていないと、学習がすすまないのである。)