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2019-08-19 09:15:00
月曜日・曇・札幌。どんよりと曇り、しかしところどころ晴れ間がある空。憂鬱な日常活動の再開始。過ぎ去ったお盆休みは、のんびりできて、懐かしい。★古い河出書房新社版『国富論』を手にしてぱらぱらと読んでいたら、訳者の水田洋氏による解説の中に、人類史を、長い長い「狩猟採集時代」、私有財産が現れる「農耕時代」(これが2千年の歴史時代だろう)、そして画期的「工業時代」(これが西暦15世紀以来の近代社会なのだろう)に三分する歴史観が、語られていた。★今私は、なにか画期的な新時代が目の前で始まるのではないかと、期待もし、恐怖心も抱いて、予感している。ただしかし、それが正確にかつ総体的には「どんな時代」なのかさっぱりわからぬというあせりを日々覚える。たしかにアルビン・トフラー氏その他が説く、知識時代とか、はたまた多くが説く金融時代とか、情報時代とか、虚業時代とか、それらはみな的を得ているような気もするが、なおかつ「正確に総体的に」どういうことかという認識には遠い気がする。じゃあ、何だ。★アダム・スミスを水田さんの手引きでひっくりかえしていると、そこには今の私の疑問への解答はないが、ただ、大きな知的安らぎを与えてくれる。巨匠アダム・スミスは、端的にはやはり時代に制約されたひとでもあった。「マニュファクチュア時代」という初期工業化時代に生きて、その時代の制約のもとに、しかしやがて巨大に拡大する工業化時代・資本主義時代の歴史的特徴を見事に描いた。★いまの私は、新しい時代のせいぜいが「マニュファクチュア時代」しか正確には見られまい。頑張ってもスミスにしかなれない。★そしてスミスになれるほどなら上等ではないか。光栄であろう。★じやあなにか私の身の回りにはないかって?こうしてブログという手段で書いているのも、その一つの兆候であろうが。さて、憂鬱な日常生活を頑張ろう。