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2018-10-01 17:06:00
『伊勢物語』というのは、『竹取物語』と並んで、日本の古文を読むときに初期に手にするものという相場が出来ているらしい。教科書にもよく(部分的に)載っている。私は高校のころ『竹取物語』を授業で接して、「たいへんわかりやすい」という印象を持っていた。さて長じてきたものの、あまり古文を読もうとしなかった。今になってみると、古文が、英文同様に、あるいは英文以上に読みにくい。★いちばんやさしい古文から読み直したらどうかなと思って、『伊勢物語』を手にしてみた。(この本はどこでも習わなかった)★注釈がいっぱい入っている本で、わからない語句は注釈を見ながら本文を読むのである。意味はなんとなく通ってゆく。しかし「分からない」のだ。なぜかしら、どうもよくわからない。★何度もチャレンジしてみたが、不可解の思いが去らない。★このほど、世界文化社『グラフィック版特選日本の古典3 竹取物語 伊勢物語』1983年、を買って目を通した。絵がいっぱい入っており、解説の多い本である。なによりも楽しい本だ。★この中で中村真一郎さんが『伊勢物語』について書いている「まえがき」(64‐65頁)を一読して、私の疑問のいくつかが解けた。★中村さんは、『伊勢物語』というものが、決して一人の作家の作品というのではなく、多くの無名の書き手が書き足したり書き換えたりした物語だとみる。(まるで現代のウエブ上のウェキペディアみたいだな)しかも平安時代初めの10世紀ごろに発生しながら、11世紀、12世紀と書き足されてきた物語だという。(私などは近代の物語をみるように、自然とこれを特定の時期の特定の作家の作品と見てしまうので、実はそうではないから、戸惑ってしまう。英語だとこういうとき、コンフュージングというね。)★この物語が10世紀に最初に成立したころは、当時中国で漢詩に詞書を添えるという形式が流行っていたから、その形式をまねて、日本の奈良時代にはやったような古い和歌に適当な詞書を和文で添えてみようという形が成立した。(だから和歌ごとに同じような人物の歌と擬されてはいても、必ずしも同じ人物の作ではないのが当然ということになろう。いわば詠み人しらずのうたが作品の主体なのだ。そう思えば、この世界文化社の本の145‐149頁にまとめて掲載しているように、「伊勢物語のうた209首」を伊勢物語の125段のすべてから書きぬいてまとめる、という仕方にも独自の意味があり、その遊び方がありうることになる。じっさい古来よくこのような歌だけの書き抜きが作られたのであろう。)★11世紀には「語り」が時代の趣の中心になり(それで源氏物語のような多くのすぐれた物語が生まれた)、12世紀になると考証や注釈が流行り、物語を架空にしないでそれらしい実在した人物を探して作品に入れることが流行る。それで詞書の部分が妙に生々しくなったり、うるさく注釈をつけたりという性質が『伊勢物語』に付け加わる。★こういうどうしょうもなく複雑な因子をもつ物語だから、読む者は小うるさいことを考えないで好きなようにこの文を読めばよろしい。しかし現代の私たちはどうしても散文を読みの中心にしてしまう。逆に「うたを取り出してひねくる」ように歌にポイントを置くのが妙であろうかと思う。わが古文の原型だな。思えば、歌心なき野蛮人と同胞に見られたくはないしね。「ちょくなればいともかしこしうぐいすのやどはととはばいかにこたえむ」権力者が無理難題を言うときに、これをやんわりとしかしタフに防ぐのが国民のうたごころである。