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2018-08-21 12:50:00
通貨の社会的性格は明らかに変化している。その変化をたんにやむを得ない現実と理解するのか、それとも大いに検討吟味を要するものと考えるのかによって、対応に天地の差が出てくる。さてその変化とは。★資本主義下のマネーの(通貨の、というつもりなんだが)発展は、個人的資本主義の下で、個人資本間の信用が社会的信用体系になるのに重なった中央銀行発券制度のもとでの通貨(端的には中央銀行券)の成立発展として行われたわけである。しかし20世紀に入ると、良くとも悪くとも個人資本は社会の体制としては法人資本と変わり、「ヒトの資本」から「ヒトビトの資本」となった。信用の主体が圧倒的に法人資本に変わってゆくと、「資本間信用が社会的信用となる」筋道がとんでもなく大きく変わるときがやってくる。法人資本がグローバルな時勢に超国家的になつてゆくと、法人資本間の信用というものが昔の個人資本間の信用にはとうてい例えがたい性質のものに変わっているのである。★そもそもグローバル社会の中央銀行など現にありはしない。国民通貨に対してドルが世界通貨だというのは、せいぜいが比喩的表現に過ぎない。★通貨の根拠になる信用の意味がまったく違っている。だからといっていま通貨がまったく記号化しているかのようにいうのも、極論であろう。こういう恐ろしいはざまに現にいるがゆえに、国家信用を大きな背景にしているような通貨がゼロ金利だのマイナス金利だのの下で行われるのに、この体制を全くの不合理と言い切ることも難しい。(昔の論法だと、今の金融政策の立案者は、ことがうまくゆかないときには、ピストル自殺してもしかるべきことになろう。)☆要は私にもよくわからない。